Japan / MURATA MANUFACTURING CO., LTD.
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第1章 村田製作所の創業 (〜1945年)

1. 京都の産業風土と村田製作所

五条坂・泉涌寺かいわい

いまや世界に知られる電子・セラミックスメーカーとなった当社・村田製作所は、昭和19年10月、清水焼に代表される京焼の風土の中から生まれた。

京都は歴史を今日に伝える古い都であるが、同時に伝統産業の町でもある。西陣織、友禅染め、仏具、そして京焼などが、いまも息づいている。

京都の窯業について、茶わんなどの食器類、人形・置物・花びんなどの工芸品もあったが、すでにタイルや電磁器などは広く生産されていた。紡織機用の糸道ガイドの他、松風陶業では高圧碍子 (がいし) や戦地用のろ水器もつくられており、陶歯もつくられていた。また、研磨砥石の生産工場も著名なものがいくつもあった。京都には島津製作所もあり、化学磁器の製造なども少しは始まっていた。素原料を産出しない土地柄ではあったが、近代セラミックスの夜明けでもあった。

京都の洛南、東山区に泉涌 (せんにゅう) 寺がある。古くから皇室の帰依厚く、孝明天皇の御陵をはじめ境内に御陵も多いことから”御寺” (みてら) とも呼ばれ、その御寺・泉涌寺から”通天もみじ”で名高い臨済宗東福寺派の大本山・東福寺にはさまれた地域、ここには中小の陶磁器製造業者が寄り集まって分業している。

同じ東山区の清水寺の下町に当たる五条坂かいわい、それを南へ下った日吉地区、さらに南へ下った泉涌寺地区、これら3地区はいずれも陶磁器業者が集まった一大製造地帯で、清水焼の産地である。

清水焼というものが、いつ頃興こったかについては諸説があり、宝永・正徳期 (1704〜16) 説、寛延元年 (1748) 説、宝暦年間 (1751〜64) 説といった具合だが、いずれにせよその発祥は五条坂かいわいで、以後、日吉地区、泉涌寺地区へ、そして二ノ橋あたりから鴨川を越えて内浜あたりまで窯業の生産地が広がっていた。

もともと泉涌寺地区は製瓦業の盛んな地だった。それは豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立する際、この付近に瓦窯を築いて瓦を製造させたことに始まるといわれるが、大正5年、日吉地区の (注1) 開窯に遅れること3年、窯築師・島村久三郎によりこの地に貸窯が築かれてから、家族労働を中心とした家内工業者が密集する焼き物の生産地としてひらけた。

当社の創業者・村田昭は東山区に生まれ、この泉涌寺地区に育ち、清水焼という伝統産業の中から電子・セラミックスという新しい技術を創り出すのである。

村田吉良と村田製陶所

当社・村田製作所は、村田昭の父・吉良が始めた村田製陶所に端を発する。

吉良は石川県河北郡浅川村の出身。7歳で農業に従事していた父親を失い、妹2人は母方の実家に引き取られて育った。彼は小学校 (4年制) を卒業してから母親をたすけて百姓仕事に従事してきたが、さらに17歳で母親をも亡くしたため、やむなく農業をあきらめて、京都に出、呉服屋の丁稚になった。しかし、手に職をつける必要を感じ、その後、専売局の機械の調整工に転じた。

昭の母“いよ”は滋賀県中洲村の農家の末娘だった。

昭はこの両親の間の次男として、大正10年3月25日誕生した。

大正14年、父・吉良は決するところがあり、妹夫婦が京都東山の泉涌寺で陶器屋をやっているのを頼って、わずかばかりの田舎の田畑や山を売って、その資金を元手に東山区泉涌寺東林町で陶器屋を始めた。名付けて「村田製陶所」。

泉涌寺は京都駅の東南に当たり、前記したように、そこから北の日吉地区、五条坂と並んで、清水焼のふるさとといわれ、小さな陶器工場の多いところだった。それらの業者は何軒かで一つの登り窯を借り、その窯の中を区切って、お互いの製品を焼いた。村田製陶所では2〜3人の従業員を使い、主に輸出用碍子を焼いていた。電気用碍子で、船舶用電灯ソケットなどに使われる碍子である。ほかに碍管なども焼いた。

吉良は真面目で温厚な性格、そして働き者だった。夫婦は朝は暗いうちから起き出して働き、夜は星が出てからでないと作業場から帰ってこなかった (注2)。

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2. 創業者・村田昭

村田昭の生い立ち

昭は幼少の頃から病弱で、病気のデパートといわれるくらいさまざまな病気をした。中学は京都市立第一商業学校へ進んだが、2年生になった5月にかっ血した。当時、死の病といわれていた肺結核である。

翌昭和9年春、病状が回復に向かい、1年遅れで2年に復学するが、夏にカゼをこじらせて結核が再発、その後病状は一進一退を繰り返し、4年間続いた。

当時、公立学校は2年以上の留年を許さないので、17歳で私立の大谷中学の3年生に試験を受けて編入させてもらった。しかしここでも、結核を再発させて、ついに卒業することなく終わった。

闘病生活中、昭の心をいやしてくれたのは読書であった。夏目漱石、森鴎外や吉田絃二郎を愛読し、また誠文堂新光社から発行されていた『子供の科学』が毎号楽しみだった。やがて宗教書にも親しみ、そしてそれらの宗教関係の本から、おぼろげながらも学んだのは、”無の精神”つまりこだわりを捨てることの大切さだった。

こだわったり、とらわれたりすることが、病気にも悪いと知った昭は、こだわりをなくし、周囲の人びとに感謝の心をもって接するように努めた。すると、病勢が弱まる頃であったこともあろうが、病状は薄紙をはぐようにして日々よくなっていった。

18歳の春の中耳炎を最後に、昭はようやく病気から解放された。

特殊磁器へのアプローチ

昭和14年、昭は少しずつ家業を手伝い始めた。最初は肺結核の再発を恐れて、直接現場の作業には携わらず、帳面付けや外回りの仕事から始めた。得意先から注文を受けるとその見積もり (注3) をつくって、納期や値段の交渉をする、というのが外回りの仕事である。

昭は仕事に慣れてくると、積極的に新しい得意先を開拓したくなった。ある日、父親に「こんな小さな商売では儲けもタカが知れているし、発展性もない。もっと手を広げて大きく伸ばそう」と進言した。

ところが父親は息子の進言に対して、これを厳しく拒んだ。「注文を多く取ろうとすれば、同業者の得意先へ行くことになり、同業者より安くしないと注文はもらえない。それでは同業者が困るし、自分のところも儲からない仕事をすることになる。そんなことはやるべきではない」

父親の吉良は、性格はおだやかだったが義理堅く、同業者の得意先を荒らすようなやり方をもっとも嫌ったのである。

このことを通じて「単なる価格競争で商売するのではなく、人のできない独自性のあるもので商売する」というその後の当社経営の根幹となる考えが生まれた。

そこで昭が手がけたのが特殊磁器。新しい焼き物として (注4) 本などで盛んに紹介されていたものだった。早速、京都にある国立陶磁器試験場や京都市工業試験所を訪ねて、化学用陶磁器についての知識やつくり方についての指導を受けた。また父親の友人が京都大学冶金教室で助手をしていたので、訪ねて実物を見せてもらった。

実験室ではるつぼ、燃焼管など多くの特殊磁器が使われていたが、それらの特殊磁器は、高い温度で焼成しなければならないものばかりで、温度の低い泉涌寺の登り窯ではとうてい焼けない、というのが昭が実験室で受けた印象だった。

たまたま先生方との雑談の折りに、「るつぼを受ける三角架の焼き物にひびが入ってよく割れる」ということを聞いた。

そういう焼き物なら登り窯でも焼けるのではないかと思った昭は、耐火粘土を材料に、中心にるつぼを支える突部を設けた小型炉を考案して、冶金教室へもち込んだ。これが大変好評だった。このあと、先生方の紹介で住友金属、住友電工 (注5)、尼崎製鉄など関西の冶金関係の会社の研究室へも売り込んだ。

昭はこの炉を”ツヅミ型マッフル炉”と名づけて昭和15年7月に実用新案を出願したが、これが昭が最初に取り組んだ新しい製品である。

また同じ頃、国立陶磁器試験場の指導を受け、当時としては最先端の焼き物であったムライト磁器 (高アルミナ質磁器) をつくって納品した。いずれも量的には少なく、大した商売にはならなかったが、当時の京都の陶器工場の中で、こうした特殊磁器を手がけたのは、村田製陶所をおいてほかにはなかった。

精密特殊磁器分野も手がける

戦前、京都を代表していた大企業は島津製作所であった。同社は歴史も古く、明治8年に初代島津源蔵が家業の工芸鋳物職から、教育用理化学器械の製作に手を染めたのが、その始まりといわれる。その後、レントゲン器械の開発に成功し、理化学機器、医用機器、精密測定器分野へと業容を広げてきたが、昭和12年の日中戦争のぼっ発とともに、その精密加工技術が軍の着目するところとなり、急速に軍需工業化していった。戦時の最盛期には全国に二十数工場、2万5,000人近い従業員を擁した。

昭和14年の秋、村田昭はこの島津製作所から、航空計器のピトー管 (速度計) 用の部品の製作を依頼された。ピトー管のボビンと碍管 (注6) である。京都の陶器工場ではとてもつくれそうもない精密な部品だった。案の定、図面をもって金型屋へ行ったところ、「こんな難しいものはできない」と断られた。

昭は工夫に工夫を重ねて、ピトー管部品を製作し、島津製作所に納品した。このピトー管部品の成功によって村田製陶所は、精密特殊磁器という新たな分野を開拓したのである。と同時に、京都を代表する大企業であった島津製作所との取引も始まった。

理化学器械、工業計測器、X線装置、電気炉など幅広い製品を手がけていた島津製作所との取引は、昭にさまざまな科学的知識を与えることになり、またその紹介によって三菱電機、横河電機製作所との取引も始まり、村田製陶所の取引は確実に広がっていった。

横河電機製作所からの注文は、電気計測器の針の振れ止めであった。計測器の針が磁石になって振れ止めにくっついてしまうので、その振れ止めを碍子でつくって欲しいという要請だった。

外径1.2mm、内径0.7mm、長さ4mmという、町の陶器工場の常識ではとうてい考えられないような精密な碍管だったが、ピトー管部品づくりの経験を生かして、昭はそれをつくり上げた。

三菱電機からも同じような品物の注文をもらい、1個5銭で納入した。当時、電熱器の配線の絶縁物用碍子が1個0.05銭程度だったから5銭というのは破格の値段であり、きわめて利益率の高い商品だった。

こうして昭の新しい焼き物への挑戦は、少しずつ実を結んでいった。

しかし、16年11月、父・吉良が病気で倒れた。手遅れの胃ガンであった。ただちに入院して手術したが、もはや手のつけようもなかった。16年12月20日、数え年47歳で亡くなった (注7)。

折りしも、日米間で太平洋戦争の幕が切って落とされ、日本中が戦時体制一色に塗りつぶされようとしている時であった。

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3. 個人企業村田製作所の発足

戦時下の企業合同

昭和16年12月8日、わが国はついに米・英に対し宣戦を布告し、太平洋戦争に突入した。国は総力をあげて戦争の遂行を決意し、翌17年に入ると国家総動員法にもとづき、あらゆるものが戦力増強のための枠組みにはめこまれていった。

17年5月、国家総動員法第16条発動による企業整備令が勅令として公布された。この企業整備は、いわゆる平和産業の工場の大部分を休廃止してその建物、機械、装置、労働力などを航空機、鉄鋼、石炭、軽金属、船舶の5大重点産業など軍需工業に転用し、機械などの転用の価値もない雑工業は徹底的に整理することにあった。

かくてこのたびの企業整備では、京都陶磁器工業組合員704名の大半が翌18年2月までに63の企業体に整備統合 (注8) され、さらには転廃業を余儀なくされたものも多かった。これに燃料の松割木不足が加わり、生産は極度に縮小し、五条坂・日吉・泉涌寺各かいわいに煙の立つのもまれになった。

10軒が一つの有限会社をつくる企業合同では、村田製陶所は泉涌地区にあったが特殊磁器などを扱っていたため、日吉地区の業者と合同することになり、「日本陶磁器有限会社」の設立に加わって昭は若いながらも役員に推された。

昭は営業部門を担当し、合同前の各業者の得意先は当然のこととして、そのほかにも呉や豊川、横須賀、佐世保にあった海軍工廠などへも製品の売り込みを行った。

こうしたある日、三菱電機伊丹製作所の無線器工場から、昭は次のような依頼を受けた。

「戦争が激しくなり空襲でいつ東西分断されるかもしれないのに、関西には電波兵器用のステアタイトをつくるところがない。ひとつ君のところでやってくれないか」

ステアタイトは特殊な高周波絶縁体で、高周波コイルのボビンや絶縁物として電波兵器にはなくてはならない材料である。昭和6年頃から逓信省電気試験所を中心に研究が開始され、その後日本碍子、東京電気 (現・東芝) が、次いで日本電気、富士電機製造でも手がけるようになったが、関西ではまだつくっているところがない。

昭は会社へ戻ってこのことを報告した。しかし、「そのような難しいものはうちではつくれない」と誰の賛同も得られなかった。

しかし、昭は早くから特殊磁器に興味をもち、一部それを手がけたこともあったので、大いに心が動いた。同業者と競合しない独自の製品をつくれというのが父の教えでもある。彼は会社をやめ、自分一人でやろうと決意した。

ステアタイトの製造には金型が重要である。そこで、親しくしていた金型屋、小西貞一郎氏 (注9) に相談すると、「協力するから独立したらどうか」と激励してくれた。

村田製作所を興す

独立するに当たっては、まず工場を探し、京都四条大宮北の旧染物工場を借り入れた。問題は燃料として使用するガスである。高圧管を引き込まなければならないが、これには軍需大臣の許可が必要であった。

三菱電機に援助をかけ合っても、「まだ品物ができてもいないのに、そのような証明は出せない」とラチがあかず、困っていたところを助けてくれたのが京都府庁に駐在していたガス監督官だった。「戦争に使うそのような重要なものなら、自分の責任でつないでやろう」と高圧管からの引き込みを許可してくれた。

独立準備などで多少時間がかかりすぎてしまったが、さっそくステアタイトのサンプルをつくって三菱電機に持参した。

ところが、三菱電機の担当者から「君がグズグズしているから、ステアタイトはよそでやってもらうことになった」といわれ、ステアタイトの仕事は打ち切りを告げられた。

「やっと工場ができたので、なんとか仕事が欲しい」と頼むと、担当の係長は「やるならチタンコンデンサをやってくれ」という。

こうしたことなどで、半年近くもたついたが、18年12月、昭は京都府知事宛に「航空兵器部品製造工場新設許可申請 (注10)」を提出した。

この四条大宮北の工場は「村田製作所」と名付けられ、玄関先には「三菱電機伊丹製作所協力工場」の看板も掲げられた。

酸化チタン磁器コンデンサ、通称チタンコンデンサは、酸化チタン磁器の誘電特性を利用して電気を蓄えるための部品であり、現在、村田製作所の主力製品になっているセラミックコンデンサの初期のものである。そしていうならば、これが村田製作所とチタンコンデンサとの運命的な出会いであった。

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4. チタンコンデンサとの出会い

チタン磁器の発見

酸化チタンが大きい誘電率をもっていることを、1902年 (明治35) にW.Schmidtが天然ルチルについて測定し、この研究が、酸化チタン磁器が当時としては異例ともいえる高誘電率材料であることを示唆したのであった。

この酸化チタンを大容量のコンデンサ材料として利用することは、シーメンス社によって特許出願され、1925年 (大正14) にドイツ特許として登録された。しかし、この時点ではまだ製造法が具体的に示されたわけではなかった。その後、酸化チタンの含有率が高い成形品を焼成し、セラミックに電極を焼き付け、大容量のセラミックコンデンサを製作する特許が多数出願された。

このようにして、材料と製法の両面において改良が進められた結果、ドイツにおいては1933年 (昭和8) 頃、すでに酸化チタン磁器コンデンサが量産され始めた。

わが国でのチタンコンデンサの研究と生産

わが国では昭和9年に、そうした酸化チタン磁器の情報をドイツの雑誌から入手した電気試験所が、ただちにこの研究を開始し、翌10年秋にわが国初の酸化チタン磁器に関する報告を小川若三郎、小川建男、森安静太らが発表した。さらに10年9月の小川若三郎、森安静太による発明「チタニウム磁器製造法」は、酸化チタンに鉄化合物を添成するもので、それは容易に工業的にルチル系チタンを得ることを可能にした。これにより良好な特性が得られたばかりではなく、先進国であったドイツのメルク社の特許論争に勝つなど、内容的にもはなばなしい成果をあげた。

昭和13年、チタニウム磁器製造法の発明者の一人である森安静太が、河端作兵衛の招きで河端製作所に入り、酸化チタン磁器コンデンサの商品化に取り組み、翌14年秋にわが国初の酸化チタン磁器コンデンサを河端製作所で完成させた。

この14年9月に第2次世界大戦が始まり、わが国もまた国家の存亡をかけて電波兵器の開発にしのぎをけずるが、その中心の一つがレーダであった。これには温度に対して安定なコンデンサが必要不可欠であった。戦時下では自国で開発するしかなく、このことが電気試験所をはじめとする研究機関において、新しい低温度係数誘電体を自主開発させる契機となった。

軍需会社を中心に、高周波用セラミックコンデンサの需要は非常に大きくなった。しかし、コンデンサメーカーは当時、河端製作所ただ1社であった。やがて1社だけの供給の不都合が顕在化したのか、日本電気、日本無線、川西機械製作所 (後の神戸工業、現・富士通テン) などの有力な通信機メーカーが自社生産を始めた。

さらに、関東では昭和18年に佐藤彦八が河端製作所から独立し、佐藤航空無線器材製作所 (現・太陽誘電) を設立し、酸化チタン磁器コンデンサの生産を始めた。

一方関西では、三菱電機製作所の要請を受けて昭和19年 (1944) 創業の当社・村田製作所が翌20年に酸化チタン磁器コンデンサを商品化し、納入を開始する。

村田製作所にあっては、この酸化チタン磁器コンデンサ、通称チタンコンデンサとの出会いが、その後のエレクトロニック・セラミックスメーカーとして事業展開していく大きな契機となったのである。

昭のチタンコンデンサへの取り組み

ステアタイトはいらないといわれた以上、なんとかチタンコンデンサに挑戦するしかない。すでにチタンコンデンサの焼き物の配合法は本にも書いてあったが、それまで手がけていた絶縁物と違って、今度は電子部品である。電気の知識がなかったので、昭は電気関係の本 (注11) を読んだり、人に教えてもらいながら、さまざまに試してみた。

電気の測定に必要な計測器などは、島津製作所から分けてもらい、チタンコンデンサづくりに取り組んだ。

しかし、本に書いてある配合ではどうしてもうまく焼けない。そこで以前から教えを受けている京都市工業研究所の千田信惇先生に相談すると、「ちょっと粘土を混ぜてみたらどうか」といわれた。早速、原料に2%ほど木節 (きぶし) 粘土という特殊な粘土を入れて焼いてみると、非常に焼きやすくなった。

チタンコンデンサは酸化チタンを主成分とする焼き物で、その上に銀の電極を焼き付け、リード線をはんだ付けすればできる。

焼き物さえできれば、銀焼き付けは陶器の上絵付けの技術と変わらないので、お手のものだった。

3カ月ほど失敗を繰り返した後に、なんとかチタンコンデンサを焼き上げ、喜び勇んで、サンプルを三菱電機へ持ち込んだ。担当者が部長に引き合わせてくれた。

ところが、部長は昭の学歴を聞くと、「わが社では帝大出身の技術者が何人も研究しているのに、まだできない。それが君のような無学な男にできるとは思えない」と取り合おうとしなかった。けんもほろろに追い返された。

くやしく、腹も立ったが、捨てる神あれば拾う神ありだった。稲森良夫工作課長という人が太っ腹な人で、部下の係長と相談、部長に黙って注文をくれたのである。昭は涙が出るほどうれしかった。

この独立して初めて注文をもらったのは昭和19年10月であった (注12)。

チタンコンデンサ生産の苦闘と三菱電機大口受注

なんとか仕事をもらって、酸化チタン磁器コンデンサ、いまでいえばセラミックコンデンサを焼き始めた。

設備といっても、たいしたものがあるわけではない。原料を混ぜ合わせ、こねるためのポットミル、手づくりの円筒型のガス炉くらいのもの。畳の上に裁縫机が並べられ、その上ではんだ付けなどの手作業をする。低い天井からは裸電球がポツンとぶら下がっている。しかし昭にとっては、女子作業員を雇い、あり金全部投じての必死のスタートだった。原料は酸化チタンである。

めざすチタンコンデンサは円筒型、直径3mm、長さ10mm、肉厚は容量により異なるが、0.25〜0.4mm。

まず原料の酸化チタン、石灰、ジルコンなどをポットミルに入れ、混合・粉砕し、泥漿 (でいしょう) 状のものを乾燥させ糊を加えて大きな特製の乳鉢で混ぜ合わせて、こねる。それを押出機で円筒の棒状に成形する。その後乾燥させて所定の長さに切って、半乾きのセラミック素体にする。

その素体を十分に乾燥させて、ガス炉で決めた温度カーブでもって高温で焼く。焼き上がったものが、チタンコンデンサのセラミック素体である。

さて、サンプルの時はできたのに、いざ量産となってからは、不思議といくら焼いても匣 (さや) の中心部のセラミック素体はブクブクだらけの岩のような不良品ばかり。そんな状態が3カ月近く続き、年が明けてもいっこうに製品化のメドがつかなかった。

昭和20年2月、ちょうど節分の日だった。朝5時、昭は窯の前に立った。肌を刺すような寒さが襲ってくる。京都の冬は寒い。

夜中に焼き上げた、まだ赤い窯のふたを開け、火ばしを使って中の焼き物を取り出す。その熱く焼き上がった小片をボロ切れにつつみ、じっと見つめた。

「できた、できた」

前年10月の創業以来、焼けども焼けども、いっこうにでき上がらないセラミック素体が、やっと4カ月ぶりに全数がうまく焼き上がったのである(注13)。

この酸化チタンや次に試みるチタン酸バリウムを主原料とした焼き物は、これからあと述べるように、さまざまな電気特性を有する。そうしたことから、昭は後年これを親しみをこめて“不思議な石ころ”と呼ぶのであるが、いままさに不思議な石ころの誕生であり、その石ころがやがて電気の世界を変えていくのである。

昭は焼き上がったセラミック素体に、銀を塗り、銅線をはんだ付けして、コンデンサに仕上げ、三菱電機の伊丹製作所にもっていった。

製品は合格となった。そして即刻、明日から1カ月1万個納めよ、という大量の注文が発注された。

〈ついにやったぞ〉昭はそう大声で叫びたいほど、喜びをかみしめた。

当時、このコンデンサは1個2円30銭。1カ月で2万3,000円、大変な収入である。

だが、その好調な景気に酔いしれている期間はそう長くはなかった。戦火は日本本土にまで及び、いまや本土決戦が叫ばれるほど、日本は悲惨な状況を迎えていた。京都は空襲をこうむらなかったものの、大都市から中小都市にいたるまで日本列島はB29の間断ない空襲にさらされ、すでに焼け野が原に化そうとしていた。

20年8月6日広島に、次いで9日長崎に原爆が投下され、8月15日、終戦。いまや日本は敗戦国となった。

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注1)当時の京都の陶磁器の窯は登り窯で、共同で茶わんや碍子を一緒に焼いていた。登り窯は幅1.5m、長さ7〜8mのトンネルが段々につながっていて、1の間から、多いのは7の間と6〜7段、日吉地区あたりの登り窯では10段以上にもなっていた。そして、3の間ぐらいまでは還元炎、4の間からは酸化炎というのが一般的であった。そして、各部屋の高さは約2m、後半分が食器類、前半分が碍子を焼いた。

注2)「両親が共働きであったから、朝、目が覚めるともう両親はおらず、泣きながら500メートルほど離れた仕事場に行ったことを思い出す。
幼稚園から帰る先も父母の働いている仕事場で、夏になると冷えたラムネを1本飲ませてもらうのが楽しみだった。その仕事場で、夜遅くまで働く親の傍らで、きつねうどんなどを食べ、やがてウトウトと寝入ってしまう。仕事を終えた父に起こされ、3人で銭湯に行き、帰りは母の背で寝て帰る。そんな毎日だった」(村田昭『不思議な石ころ・私の履歴書』)

注3)外回りの仕事で昭がまず困ったのは、見積もりを要求されることだった。
だいたい町工場では、経験と勘で当てずっぽうで経営をやっていた。しかし、昭は昭なりに見積もりをする勉強をしてみようと思った。
早速作業伝票をつくって統計をとった。半年もすると、品種別、工程別の工数や良品率、能率などの資料ができて、どうにか見積もりができるようになった。

注4)特殊磁器を研究するために買った本『特殊窯業品』

著者 東京工大建築材料研究所
工學士 鈴木信一
編纂 材料研究會
発行 合資會社 共立社
昭和14年10月5日

注5)この縁で住友電工イゲタロイの焼入炉のマッフルの注文をもらった。これは国立陶磁器試験場で教えてもらい、ムライトでつくったが、原石の緑柱石は四国から取り寄せ、京都の原料会社で粉砕してもらい、木節 (きぶし) 粘土と混ぜてつくった。
その後住友電工からは、ほかの碍子の注文ももらうようになった。

注6)大変難しい設計で、ヒータ用ボビンは、内径10mmほど、長さ40mmほどの外側はねじになっていて、ねじの底と内径との厚さはわずか1.25mmしかなく、両サイドに厚さ1.5mmほどのつばがあり、その外径は15mmほど、内径を引くと片側はわずか2.5mmほどで、そこへ1.25mmと0.7mmほどの穴が2つ開いているものである。
もう一つは、碍管で外径2mm、内径0.8mm、長さ10mmほどのものであった。

注7)戦争中でもあり、葬儀は簡素にすませた。
一家の大黒柱を失い、昭は母と3人の弟妹の生活を支えねばならなかった。妹の幸子が13歳、治と和夫はまだ9歳、8歳の小学生だった。
父の工場は小さくても、業界での信用は絶大だった。そうした父の信用によって、多くの人から引き立ててもらった。
この頃戦争で、従来の大阪の電気器具関係の仕事は減っていたので、島津製作所から飛行機のピトー管の碍子を中心に多くの仕事をもらえたのが救いであった。

注8)京焼業界に対しては、すでに昭和17年1月「陶磁器工業の整備に関する商工次官通牒」が発せられていたが、翌18年2月、京都陶磁器工業組合704名中184の被整理者を除いて、株式会社14、合資会社1、有限会社40、ほかに小組合8、計63の企業体に整備統合された。

注9)小西精工の創業者の先代。

注10)昭和18年12月17日に申請し、「昭和19年2月2日第2279号京都府許可証」の印がある。
事業主の住所は、住居の東山区泉涌寺東林町1番地、工場の位置は中京区大宮通蛸薬師下ル四坊大宮町182番地、面積45坪39 (これは、のち、戦後昭和22年2月に隣家の裏に拡大している)。

2馬力電動機1台
ポットミル (チタン粉砕機)
プレス (木製手動) 3台
ガス炉 (内径30糎、高35糎) 1個
ガス炉 (巾1米、長1米50、高1米) 1個
電気炉 (内径33糎、高40糎) 1個
製品 航空機通信用コンデンサー
原料 チタン白
従業定員 男3人 女2人
始業時間午前7時 終業時間午後5時
休憩時間 1時間
休日 電休日
工事の着手期日 御許可後6カ月以内
事業開始期日 使用御許可ノ翌日
・・などとある。

注11)チタンコンデンサを勉強するために読んだ本の一つ『高周波絶縁物』

著者 イー・アルベールズ・ションベルグ
翻訳 日本無線株式會社
技師 船曳 春吉
発行 有象堂出版部
昭和18年10月10日

注12)村田製作所の仕事は火を扱う商売。そこで昭は生産を始める前に火の神様である愛宕神社へ、すでに戦争で登山電車もなくなっていたので嵐山から歩いて、お参りした。
のちにこれを記念して、村田製作所の創業記念日は10月15日と決められた。

注13)この時、これまで日中につくったものをその夜すぐに焼くから、むれてしまっていたことにようやく気がついた。このあとは必ず乾燥して焼いたので、100%の良品が焼けるようになった。急ぐあまり常識的なことを忘れて、3カ月も失敗しつづけたのである。

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