Japan / MURATA MANUFACTURING CO., LTD.
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第3章 ラジオ・通信機需要急増とセラミックコンデンサ技術の確立 (1950〜1954年)

1. 民間放送開始・朝鮮動乱ぼっ発と電子工業

民間ラジオ放送開始とセラミックコンデンサ時代の幕開け

昭和25年6月、いわゆる電波3法 (電波法、放送法、電波監理委員会設置法) が施行された。GHQの一連の民主化政策の一つで、大正14年の開始以来、NHKに独占されていたラジオ放送が初めて民間 (注1) に開放されることになった。

この結果、民間放送局の設置申請が続出し、電波3法の公布から1カ月のうちに全国で72社の出願が行われた。そこで電波監理委員会は第1次分としてラジオ東京 (現・東京放送) など16社に予備免許を与えた。

この16社のうち、名古屋の中部日本放送と大阪の新日本放送 (現・毎日放送) は9月1日に早くも開局し、つづいて11月11日には大阪の朝日放送が、12月1日にはラジオ九州 (現・RKB毎日)、同月24日には京都放送 (現・近畿放送)、25日にはラジオ東京が、それぞれ放送を開始した。以後、予備免許が与えられたのは、27年末までに18社、28年末までに14社を数える。こうして30年までには、全国に39社に及ぶ民間の放送網が形成されるのである。

かくして民間放送の開始は、ラジオの復興を巻き起こし、スーパーヘテロダイン方式の高級ラジオが急速に普及し、生産量も大幅に拡大する。加えてこの25年の6月25日には朝鮮戦争がぼっ発、これもラジオの増産に拍車をかけた。

各社、増産に次ぐ増産というのが、当時のラジオ生産だった。それが数字となって現れていない (注2) のは、当時ラジオに3割という高率の物品税がかけられていたことから、製品の多くがアマチュアによって組み立てられ、これが市場に出回って売られていたからである。

その証拠に、ラジオ生産の重要部品である真空管の生産は増えている。21年の260万本が、23年には1,364万本へと増加する。当時の真空管はほとんどがラジオ向けと思われるから、実際は相当台数のラジオ受信機が生産されていたといっていいだろう。事実、当社のセラミックコンデンサの売り上げも50%以上が一般市場向けで、セットメーカー向けよりも多かった。

26年8月に入社した安田月二 (元・常務) が当時のラジオの復興時代のことを次のように書いている。

「昭和26年のセラミックコンデンサの月産生産量は、80万個程度で、得意先の納期に間に合わず、関西3社からの増産要望は強く、また中小メーカーは現金を持参して早朝から来社される状況であった。 (中略) 私と小沢君は、得意先を訪問し、生産計画の打ち合わせ、納期打ち合わせに飛び回り、帰社してから翌日の納品の手配、あるいは梱包のために残業をした。また翌朝8時までセットメーカーのコンベアを止めないよう必死であった。(後略)」(「ムラタの歴史走馬灯」)

まさしくセラミックコンデンサ時代の幕開け (注3) である。

防衛関連通信機関係への市場拡大

昭和25年6月25日、かねて緊張が高まっていた南北朝鮮間に戦闘の火ぶたが切られ、朝鮮動乱がぼっ発した。この動乱ぼっ発はドッジラインにあえぐ日本経済にやがて“特需景気”を招来する。

一方、これに触発された形で、日本に警察予備隊が発足する。マッカーサー元帥が吉田首相にその創設を指令したのは7月8日、警察予備隊令が公布施行されたのは8月10日であった。

日本の安全を維持するための任務に当たるとされ、国家地方警察と自治体警察の警察力の強化拡充を目的とした警察予備隊にあっては、通信機は不可欠であった。

発足した警察予備隊は当初は米軍からの払い下げ通信機を使用していたが、その後、予備隊向けの通信機の国産化が進められることとなった。

前線での苛酷な条件のもとで使用される通信機には、安定化のため、大量の各種温度補償用セラミックコンデンサが使用されていた。そこで通信機の国産化のため、急きょ、米軍規格MIL、JANに準拠した一連の温度補償用磁器コンデンサの国産化が要請された。

村田製作所はいち早くこれの開発 (注4) に成功し、MIL、JANに規定された温度係数シリーズ、容量シリーズおよび高誘電率系セラミックコンデンサのシリーズを完備し、昭和27年、警察予備隊の認定試験に合格、認定メーカーとなった。これというのも、第3節で詳述するように、当社がチタン酸バリウムというすぐれた材料開発に成功していたからであった。

その後、警察予備隊は保安隊と名を変え、さらに今日の自衛隊へとなっていくが、村田製作所は防衛庁のただ一つの認定工場として、これら温度補償用磁器コンデンサの納入を長く独占することとなるのである。

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2. 株式会社村田製作所の発足

株式会社への改組

昭和25年12月23日、株式会社村田製作所 (注5) が設立された。

これまでの村田製作所は村田昭の個人企業であった。いまや大学卒業者を含む優秀な人材が次々に入社し、チタバリの研究や新製品の開発が進み、また徐々に会社としての体裁をなしてきていた。昭和25年末には従業員数も約45名に増えてきており、そうしたことから株式会社への改組に踏み切ったのである。

新会社の概要はおよそ次のとおりであった。

株式会社村田製作所

本社 京都市中京区大宮通蛸薬師下ル四坊大宮町
資本金 100万円
取締役社長 村田  昭
常務取締役 岡崎  清
取締役 小西貞一郎
監査役 利 治

かくて新会社は26年1月1日を期して、その事業を展開した。

ところが、創業以来セラミックコンデンサの性能向上に努力してきたことの結果が、いまや大きな需要の増加となって現れ、加えて民間放送開始の呼び声と国警・警察予備隊などの通信機の充実に伴ない注文が殺到し、極力増産に努めても、なお需要に応じきれない状況にあった。生産増強はまさにさし迫った問題だった。こうして工場の拡張がかなわない以上、もはや分工場の設立を考えざるを得なかった。

なお、こうした事態に対応するため、26年8月に80万円の増資を行い (新資本金280万円) 自己資本の充実を図るとともに、生産体制の増強に向けて一歩を踏み出すに至った。

福井工場の建設・稼働

昭和26年、村田製作所は福井県に工場進出をするのである。

26年初め、もはや四条大宮北の染物工場を改造した工場では手狭で、製品需要の増大に対処するためには、なんとしても新しい工場を必要としていた。旧知の京都市工業研究所の元窯業部長で当時、福井県窯業試験場の場長として赴任していた千田信惇氏から、福井への工場誘致 (注6) を重ねて受けたのは、こうした折りのことだった。

あまりにもへんぴな場所ということで、当初、村田昭は乗り気ではなかったが、千田氏の熱心な勧めと土地の無償提供など地元の厚い協力態勢も得られることから、昭はこの福井県丹生郡宮崎村小曽原への進出の腹をほぼ固めた。

問題は窯だった。セラミックコンデンサはガス炉の酸化炎でないとうまく焼けないというのが、当時の常識であった。この頃はまだ都会でもプロパンガスのない時代であり、現に窯業試験場では石炭窯を使っていた。どうしたものかと思ったが、昭に成算がないわけではなかった。というのはチタンコンデンサを始めた頃の泉涌寺の登り窯 (注7) で焼成したら還元せずうまく焼けた経験から、ガスでなくとも焼けるはずだとほぼ確信していた。

そこで、試みに窯業試験場の石炭窯で焼いてみた。予想どおり見事に円筒型チタンコンデンサ素体が焼き上がった。これで、昭はこの地への工場進出に踏みきった。

昭は義弟の高嶋繁裕にここの仕事をやらせようと、九州から呼び寄せた。彼は朝鮮から引き揚げて鹿児島で農業の仕事をしていた。京都の工場で働いている者にいきなりへんぴなこの地への転勤を命ずるのは、いささか酷だと思ったので義弟を呼んだのである。

高嶋は、しばらく四条大宮北の工場で福井行きに備えての実習をし、26年2月、たった1人で雪深い宮崎村小曽原の福井県窯業試験場に出向いた。窯業試験場の一部を借り受け、「村田研究所」の看板を掲げて発足、生産を始めた。

26年8月、地元宮崎村から3,000坪の土地の無償提供を受け、地鎮祭を行い、10月中旬に一部作業場完成とともに、加工工場のみを窯業試験場より移転した。翌27年8月、本格的工場棟 (木造平屋6×20間) の新築完成により、原料調合、成形工程をも窯業試験場より移転し、ようやく全工程自社工場での一貫生産に移った。

なお、4月に「村田研究所」を「福井工場」と改称し、初代工場長には岡崎清が就任、当初の従業員は11名であった。そして、この福井工場がその後に招来される白黒テレビ拡大期時代のコンデンサ需要を支えるのである。

東京市場の開拓と営業所開設

福井進出に前後して、当社は東京市場開拓の活動を活発に開始した。昭和25年から26年にかけては、折りから通信機市場、防衛関係市場が広がりを見せ始めた頃である。

前記したように、昭和25年の6月、朝鮮半島に戦争がぼっ発、それに呼応するかのように、自衛隊の前身に当たる警察予備隊が吉田内閣の手によって組織されるにいたった。やがて隊で使用する無線機の国産化とともに、通信機市場が活発化してくるすう勢にあった。

さらに27年には日本電信電話公社が発足し、翌28年には第1次電信電話5カ年計画が始まり、またこの28年1月には東京〜大阪間にNHK自営のマイクロ回線が完成、2月にはNHK (東京) のテレビ本放送が開始される。通信・放送関係はますますめざましい展開を見せていくのである。

昭和25年早春に田中先生と一緒に上京して以来、村田昭は東京市場に注目、積極的な市場開拓に意を注いだ。

まず、25年2月に東京出張所を大田区田園調布に設置するとともに、昭は岡崎清や佐利治、このあと26年8月からは安田月二などを連れて上京、酸化チタン磁器コンデンサなどの商品を両手いっぱいかかえて都内を回った。ラジオセットメーカーの日本ビクター、東芝、ラジオの中に組み込まれるIFTメーカーの大島無線、中央無線、スター、日本電気音響、ミドリ無線、ゼンセン、永井製作、また旭電機、富士通信機、横河電機、大倉電機といった通信機メーカーも昭たちの大切な訪問先 (注8) だった。

やがて当社は、前章でもふれたように、日本電気に製品を売り込むことに成功したのである。

というのも、当時、電話回線にこのセラミックコンデンサが多く使われていたが、品質が悪く、時々、パンクして増幅器を故障させた。なにしろ当時は東京の声が大阪に届く頃には、かすれてよく聞きとれないぐらいで、増幅器を必要とした。しかし、その増幅器も欠陥コンデンサが原因でしばしば故障する。これには電電公社はもちろん、メーカーの日本電気も困り果てていた。

ちょうどその頃、当社の酸化チタン磁器コンデンサが、日本電気の前に現れたのである。テストしてみる。これがなかなかの品質 (注9) だった。早速、日本電気の採用するところとなった。

この25年に始まった日本電気への納入が、通信機市場へ村田製作所の製品が入り込むきっかけになったのである。

こうして村田製作所は東京進出の足がかりをつくった。そして昭和27年7月、東京出張所を東京営業所とあらため、東京都港区芝西久保桜川町4に移転、安田月二を初代の営業所長に任命、東京市場開拓をいちだんと推進していくことになったのである。

京都山科本社工場の建設

まさに昭和27年は当社にあっては、民放ブーム、電信電話市場の拡充、警察予備隊の発足による防衛市場の拡大という要素が重なり、がぜん活況を呈するに至った。もはや四条大宮北の本社工場は手狭であり、早急な生産体制の拡充を迫られていた。

たまたま京都市東山区山科日ノ岡に、山科精工所所有の土地500坪、建物300坪の空き工場を入手し、27年5月に本社および工場をここに移し、四条大宮北の旧本社工場は特殊な小口のものだけをつくることとした。

すでに昭和27年年頭に発表した「経営方針 (注10)」で、当社は通信機器に照準を合わせた戦略を打ち出しており、したがって新しい京都工場を通信機関係の特殊チタン磁器を手がける工場として発足させた。

一方、酸化チタン磁器コンデンサについては、福井工場を中心にして生産を展開し、これが民放開局によるラジオ需要の急増に乗って増産に次ぐ増産の勢いにあった。岡崎工場長や高嶋繁裕たちは、工場を継ぎ足し継ぎ足しして、需要の増大に対処していった。

急速な業容拡大と資金面のひっぱく

かくて昭和26年12月から27年11月末にいたる第2期事業年度においては、需要は予想どおり民間放送の開始とともに増加の一途をたどり、売り上げは6,000万円へと伸びて初年度 (昭和25年12月〜26年11月末) の2,300万円の2.5倍に上り、利益も約750万円と初年度の約5倍に達した。これは製品の品質が他に抜きん出て優秀なことと、大量生産によって他より格安であることによるものであった。

このような需要の伸びに対処するため、すでに当社は本社工場および福井工場の拡充を計画していたのであるが、予定よりはやや遅れ、本社工場のそれは新たに山科工場を入手して27年5月に移転、また福井工場は第3工場が27年8月にほぼ完成をみたばかりである。期初においては、こうした増設によって年間約1億円の売り上げを予定し、増産分からの利益によってこれらの費用をねん出する考えだった。ところが、増設後の売り上げが予定どおりに上がらず、さらに年末には納期遅延によるトラブルを起こし、これらのことから資金面で極度のひっぱくをきたすに至った。

そのよってきたるところは、大福帳的な経理と管理の不徹底から、諸計画を実施するにあたって混乱を引き起こしたことで、それが生産能率の低下となったものであった。

ともあれ、この資金面でのひっぱくは、このあと28年後半から29年にかけての民放ブームと朝鮮動乱の終結による不況の到来とともに、いちだんと重くのしかかり、当社の経営を圧迫するのである。

近代的経理制度づくりを急ぐ

昭和25年12月、個人経営から株式会社組織に改組されたことによって、経理制度もまた近代化を求められた。とはいっても当初は資本金100万円、従業員約40名、売り上げ月産100万円〜200万円の小規模な町工場である。経理事務も女子社員1人で現金の出し入れから伝票の発行、帳簿への記帳をまかなうことができたほどだった。

しかし会社組織ということで税法の青色申告要件として複式簿記の制度が必要。そこで計理士から指導を受け、入金、出金、振替の各伝票と仕訳帳、総勘定元帳、補助元帳などを備え、簡単な勘定科目体系も一応作成して、経理の体制を整えた。したがって初期の段階では複雑な工業簿記の導入は難しく、簡単な商業簿記の体系から入っていった。

その後、事業規模の拡大が進み、複雑な取引が発生してくるに従って、従来の経理方式では処理が難しくなり (注11)、経理部門の強化と経理に関する規定や勘定科目の処理基準が求められた。

昭和28年、京都能率協会から3人のコンサルタントを招き、事務部門の改善に取り組んだ。企業規模の拡大とともに事務と生産の管理を強化する必要が生じてきたからである。

経理事務に関していえば、予算管理や原価管理の徹底と経理に関する規定や基準の制定が急務となった。そしてこの時、事務合理化策の一つとして帳票のワンライティングシステムが導入された。これは作業指示、注文書などのマスタ (全品目のリスト) 1枚を作成すれば、その1行1行から各1葉の伝票を印刷発行する方式であり、事務の合理化に大きな威力を発揮した。

すなわち受注から工場指令、納期管理にいたる一連の伝票を同時印刷することや、経理の会計伝票を3連複写 (借方、貸方、仕訳記帳) し、その伝票つづり込みで帳簿の節約を図った。いわゆる伝票式会計制度の導入である。

また、28年から29年にかけて取り組んだ事務改善のテーマに、事務分析と改善、事務管理と業務組織がある。組織と職務分掌、権限・責任の明確化、帳票や報告制度の制定、諸規定の整備を狙いとしたものである。これが昭和31年のJIS規格審査に役立つことになる。

こうして近代的な組織づくりと科学的な管理手法の実践に取り組み、従来の大福帳経営からの脱皮を図った。

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3. セラミックコンデンサ技術の確立

円板型コンデンサへの発展

昭和20年代当時、セラミックコンデンサの主流は円筒型であった。30年代になってテレビが普及し始めると、円筒型に代わって高周波回路に適した円板型がセラミックコンデンサの主流になっていった。円筒型は多少のインダクタンスがあり、円板型は円筒型に比べてインダクタンスが小さいので高周波特性がよいということで、円筒型から円板型セラミックコンデンサへと機器の高周波化とともに発展していくのである。

本格的な円板型コンデンサとしては、昭和23年に京大の田中先生にアメリカの同業のカタログを見せてもらったのが最初である。25年に警察予備隊が結成され、米軍規格の通信機器用コンデンサに円板型の規格があり、その通信機の国産化に伴って使用する円板型コンデンサの需要が出てきた。この通信機用円板型コンデンサが最初の量産品であった。

その後、白黒テレビに大量にこの円板型コンデンサが使われ、円筒型から円板型へセラミックコンデンサの主役の座は移り、円板型コンデンサの生産は拡大していった。

前章で円筒型コンデンサの製法について述べたが、まさに手作業そのものであり、量産するには困難な製法であった。市場の需要が少ない時代にあっては、その製法での生産でも問題はなかった。白黒テレビ時代が到来し大量にセラミックコンデンサが必要になってきたとき、円板型コンデンサは円筒型に比べて量産のための自動化がしやすい面があった。

粉末成形は、当初ハンドプレスで手作業であったが、その後ロータリータブレットマシンを導入して自動化した。戦時中、京都の松風陶器の1銭硬貨 (これは流通しなかったが……) をタブレットマシンで製造していた話にヒントを得たものである。

電極の銀塗りは、当初ろくろを使って筆で手塗りしていたが、シルクスクリーンを使った銀塗印刷機を自社で開発して、自動化が進んだ。

リード線取り付けは、当初短く切ったリード線に松やに液をつけてはんだ付けしていたが、リード線をU字形に成形して取り付ける加工機を自社で開発して自動化ができた。円筒型であればリード線を磁器素体に巻き付け、ねじってはんだ付けしなければならなかったが、これも円板型の形状から自動化がしやすい面があった。

このようにして、円板型コンデンサは自動化による量産が進展し、また、その機械化が製品の品質面の信頼性を高め、機器メーカーの品質ニーズに対応することができたこともあり、円筒型から円板型コンデンサの時代へと発展し、その後のマイクロ波通信網、電子機器のトランジスタ化、高周波化に大きく貢献した。

高周波電力用コンデンサの開発

昭和25年から30年までの間というのは、当社において各種セラミックコンデンサを商品化しその基本的な技術を確立していった時代であった。

そもそもセラミックコンデンサは、固定磁器コンデンサと可変磁器コンデンサに大きく分けられるが、その固定磁器コンデンサは小型固定磁器コンデンサと高周波電力用磁器コンデンサに分けることができる。

小型磁器コンデンサは一般に定格電圧が500V以下であるのに対し、高周波電力用磁器コンデンサは放送機器用、各種高周波加熱装置用、電力搬送用、容量分圧器用に使用するため、高周波の大電力を通したり直流または交流の高電圧を印加するということから、定格電圧が1kV以上である。

高周波電力用コンデンサは、相当以前にはマイカ (雲母) が誘電体材料として使用されてきたが、これは耐圧が500Vと低い上に、形状を任意に加工することができないことから、セラミックに置き変わってきた歴史がある。セラミックコンデンサは比較的高い温度、短時間の放電、あるいは場合により障害または過負荷のため起こり得る放電に対して鋭敏でない、またコンデンサの縁端を適した形に設計すれば非常に高い電圧に至るまで縁端放電を防ぐことができる利点から、早くからセラミック材料が用いられるようになった。

高周波電力用コンデンサは、放送局の送信機には必要不可欠の部品で、ラジオ放送とともに商品化されてきた。戦時中に東京芝浦電気 (現・東芝) がNHKの大型放送機用を商品化し、今日でも高周波電力用コンデンサの有力メーカーである。

当社は、戦後の民間ラジオ放送の開始に伴い、高周波電力用コンデンサの需要が多くなることから、昭和25年に商品化に着手した。この製品開発は、従来のチタンコンデンサに比べて高電圧と高い皮相電力に耐えるものでなければならず、高電圧に耐える製品設計とその高い電圧での測定技術を開発せねばならない。それに加えてこれを満足させるには小型チタンコンデンサと比較にならない大型のセラミック素体 (大きいもので1個の重量が2kg (注12)) の成形と焼成の窯業技術が必要だった。また大型の素体を支えるための強度の強い電極と端子取り付けの加工技術が必要である。接着強度の強い電極の形成と端子のはんだ取り付けの加工技術はなかったが、苦労の末に電々公社用のパワーコンデンサを開発し、26年商品化に成功した。

株式会社として設立間もない関西の無名のメーカーが、この高周波電力用コンデンサを商品化して電々公社に認められたのである。このことは、まさに生々発展する当社の技術的な信用を確立するのに大きな力となった。

米軍規格品の商品化とSSS規格制定

第1節で述べたように昭和25年8月、警察予備隊が創設されるに至ったが、この折り武器弾薬、無線通信機器は米軍の払い下げで装備は整えられた。その後、米軍からの供給不足と日本の産業復興施策として、警察予備隊が使用する無線通信機の一部国産化が認められた。

その結果、27年に通信機器メーカー、部品メーカーに対して、JAN、MIL米軍規格の認定試験が実施されることになった。

当社ではその対応のために、27年4月にRMA (米国無線機製造業者協会) 規格、同年6月にJAN-C-20A (米国陸海軍合同) 規格の原本を入手して、日本語に翻訳した規格集を機器メーカーに配付し、サンプルを受注して米軍規格品の商品化を推進した。

JAN、MIL米軍規格は、各種の温度特性の温度補償用セラミックコンデンサをそろえることのほかに、寿命試験、温度サイクル試験、塩水浸漬試験などの過酷な試験があり、今までの技術にない極めて厳しい規格であった。

当社はいち早く、各種の温度特性の温度補償用セラミックコンデンサの材料開発とともに、高誘電率系セラミックコンデンサではチタン酸バリウム材料を使って開発を進め、27年8月に米軍規格に求められていた各種の温度特性と静電容量シリーズの製品開発に成功することができた。その各種の温度特性とは、温度補償用セラミックコンデンサではP100 (+100マイナス6乗/℃)、P030、NP0 (±0マイナス6乗/℃)、N030、N080、N150、N220、N330、N470、N750 (-750マイナス6乗/℃) の10種で、いままでのチタンコンデンサでは2〜3種しか実用化していなかったことから、これだけ数多くの各種の温度特性の製品を短期間に開発するには大変な苦難と労力を要したが、これに成功したのである。当時の当社の技術力にあっては画期的なことであった。

加えて、今までに経験したこともない試験規格をクリアするために試験機器を新たにそろえ、試験とそれに伴う特性の改良を繰り返し行い、過酷な試験規格に合格する品質の商品化に成功するに至った。この米軍規格品を商品化したことで、当社のセラミックコンデンサ技術は、世界に通用する技術として確立したのである。

27年に米軍規格の認定試験が通信機器メーカー、部品メーカーに対して実施され、その結果、機器メーカーは三菱電機、日立製作所、東京芝浦電気 (現・東芝)、日本電気、日本無線、国際電気、東洋通信機、松下通信工業、神戸工業 (現・富士通テン) の9社が認定に合格した。部品メーカーは当社とK社のみが認定試験に参加し、その結果は当社は無条件の合格、K社は条件付合格となった。

昭和30年度第1回防衛庁の機器セットの発注が始まった。国産機種名がSCR-536携帯無線機、SCR-300背のう無線機、GRC-619ジープ搭載無線機、GRC-9戦車搭載無線機が発注の対象となった。

K社は条件付合格とはいえ、セラミックコンデンサ先発の有力部品メーカーであり、加えて旧海軍出身の営業担当役員や技術部長という強力なスタッフがそろっており、戦前、戦中にかけて軍用通信機に使用するチタンコンデンサの納入で通信機器メーカーとのつながりもあり、これに対し無名に近い当社が防衛庁の機器セット用セラミックコンデンサの受注を獲得することは極めて厳しい情勢下にあった。

当社は、いち早く関西の機器メーカーの松下通信工業、神戸工業への販売活動を進め、受注を確保することに成功した。その後順次、三菱電機、日本電気、東洋通信機、日立製作所、国際電気からの受注を確保することができた。残る東京芝浦電気と日本無線は、すでにK社が先行して内定していたが、当社が大半の機器メーカーからの受注を確保していたこともあり、東京芝浦電気は最終的には当社への発注となった。

ただ日本無線は戦時中、海軍監督工場であったこともあり旧海軍将官が在社し、K社の旧海軍出身者とは旧知の仲であることと、GRC-9戦車搭載無線機にステアタイト磁器が使用されるが、その発注がK社に決定していたこともあり、日本無線からの当社への受注は土壇場で断られる結果となった。しかし、その後に当社がステアタイト磁器についても認定をとったことから、防衛庁への米軍規格品は、これを当社が長く独占して供給することとなった。

この間、保安隊規格であるSSS規格が制定されることになり、高誘電率系固定磁器蓄電器規格SSS-C-8の制定委員会が28年1月に開かれた。保安庁が中心となり、セットメーカーから東京芝浦電気、松下電器、部品メーカーからは当社の他に数社、関係者として無線通信機械工業会 (現・日本電子機械工業会) と電電公社などが参画して進められた。審議会の幹事会社には当社が選ばれ、規格の制定に大きく貢献するとともに、当社の部品メーカーとしての地位が名実ともに確立した。

温度補償用固定磁器蓄電器規格SSS-C-5の制定委員会は29年1月に開かれ、SSS-C-8の規格制定と同様に当社が幹事会社となり進められた。

このように、関西の無名に近い当社が保安庁の無条件のただ唯一の認定メーカーとなり、さらにほぼ独占に近く受注を獲得したことにより、当社はセラミックコンデンサメーカーとして世に認められることとなった。また、技術的にも先輩のK社を越えるという、まさしく当社にとっては歴史的な出来事であった。いまやこれらを通じて当社のセラミックコンデンサ技術が確立したことにより、その後のトップメーカーの地位を確保することともなったのである。

産学協同の展開・・チタバリ実用化研究会の発足

チタン酸バリウムは、その高い誘電率から多くの研究者のロマンをかきたたせた材料だった。コンデンサといえばパラフィンを浸した紙やマイカ (雲母) が主体だった時代があるが、それらの材料は比誘電率が6〜8というように1けた台であった。戦時中に村田製作所がつくった酸化チタン磁器コンデンサは、比誘電率が70〜100ということで注目されたわけだが、チタン酸バリウムの比誘電率はなんと1,000〜10,000にも及んだ。

村田製作所と京都大学は産学協同体制でもって戦後いち早くこのチタバリの研究を進め、各種コンデンサを開発、さらにチタバリの第2の特徴的な特性である圧電現象を利用して、魚群探知機振動子などの圧電製品を開発しようとしていた。

“世紀の発見”ともいえるこのチタン酸バリウム (注13) について、いち早くその材料の重要性に気づいたのが、元海軍技術将校で、旧海軍の技術者を集めて無線機を製作していた光電製作所社長の伊藤庸二博士であった。

実弟であり日本無線専務の中島茂氏を通じ、チタバリの存在を知った伊藤氏は、昭和25年4月、京大で開催された電気関係学会連合大会に出席した折り、旧知の阿部清・京大教授を訪問、「これは偉大な材料である。このような画期的な技術を一大学や一会社で研究していては日本の損失。もっと大きな研究態勢をつくって取り組むべきではないか」と国家的見地からのチタバリ研究推進態勢を提案した。

阿部教授もその趣旨に賛同、早速、伊藤氏が幹事役となって関係者に声をかけられ、「チタン酸バリウム実用化研究会」が発足することになった。

昭和26年12月17日、東京の西郊ロッジングにおいて発起人会が開かれ、次のような方針がまとめられた。

  • 材料は村田製作所が提供することとし、応用についてはメーカーが協力する。
  • 磁歪と競争することは考えず、両者ともどもその特徴を活かした応用を開拓する。
  • 委員会メンバーは、公平中立な立場で判断できる大学と官公庁研究所、実用化を促進するユーザーとしてのメーカーで構成する。
  • 研究の進め方として、狭く (秘密保持)、広く (衆知を集め)、実用化研究と基礎的研究を併行する。

この方針にもとづき、委員名として阿部清 (京大)、田中哲郎 (京大)、星合正治 (東大)、高木昇 (東大)、渡辺寧 (東北大)、松平正寿 (東北大)、中島茂 (日本無線)、平野正勝 (産業科学研究所)、小林宏治 (日本電気)、村田昭 (村田製作所)、伊藤庸二 (光電製作所) が挙げられた。

結局、阿部氏が委員長となり、伊藤氏、平野氏、田中氏が幹事役となって、研究会は発足した。

その第1回研究会は27年5月7日、日本無線株式会社東京営業所において開催された。

研究会はこのあと2カ月に1度の割で、東京、京都交互に開かれ、チタバリについて幅広い角度から研究発表が行われ、やがて構成メンバーの枠も広げられ、まさに国家的見地からの研究態勢にふさわしい研究会へと発展していく。

なお当社は、研究にあたっての材料提供のほか、研究会開催に際しての裏方的なお手伝いを続けてきたのであるが、今日、当社を支えている製品のいくつかが、この研究会を背景として生まれてくるのである。

このことを通じて「専門家の知恵を借りる」という経営哲学が生まれ、その後もこの考えが引き継がれている。

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4. 不況の苦難と社是の制定

29年不況と当社の経営危機

昭和27年4月、対日講和条約が発効してわが国は占領行政を脱するとともに、翌28年には鉱工業生産および国民所得の伸びにおいて世界一という好景気を招来した。

この28年、ラジオ生産が戦後最高の141万台とピークに達するのであり、また2月1日にはNHK東京がテレビ本放送を開始し、8月28日にはNTV (日本テレビ放送網) がこれに続き、テレビジョン時代の開幕を告げた。

しかし、日本経済のそうした活況は、朝鮮動乱の特需による手持ち外貨の食いつぶしの上に展開したもので、輸出は停滞し、合理化投資による価格引き下げが国際水準に達しないうちに国際収支が急激に悪化した。28年のわが国の総合収支は3億8,000万ドルの赤字となり、外貨準備高は27年11月末の11億4,000万ドルから、やがて29年6月末には6億ドルにまで急減する。

このため日銀は28年10月には金融の引き締めを開始し、29年1〜3月にはこれをいちだんと強化、他方、29年度の一般会計も前年度を200億円下回る9,995億円の予算を編成する。

この結果、29年1月から10カ月間も景気後退が続き、同年11月が景気の谷底となるのである。

金融引き締め策により中小企業の倒産は激増、電子工業界でもラジオ生産が天井を打ったこともあり、不況の様相が日増しに濃くなっていった。大手セットメーカーの中にも給料の遅配に踏み切るところが現れ、部品メーカーへの支払いが滞り始めた (注14)。

この間当社は、第3期 (昭和27年12月〜28年11月末) は一般通信機分野が活発に動いたことから、総売上高が前期比約40%の増加をみたが、セットメーカーの支払いが悪くなり、資金繰りが極度に苦しくなった (注15)。9月の増資 (注16) も焼け石に水の状態で、給料の遅配や増大した未払い金の解消に対して見通しが立たず、危険な事態に立ちいたったが、期末近く住友銀行と住友生命からの借り入れが確定したことが平常経営の足掛かりとして大きな力となった。

しかし29年に入り、デフレ政策の浸透によって、一般経済界の不況はますます深刻化した。当社の受注も、4月まではとにかく従来の水準を維持したが、保安庁関係の需要一段落とともに、5月よりラジオ、通信機関係とも受注が急激に減少し、したがって売上高も7月から激減するに至った。加えて各メーカーからの単価引き下げの要求急なるものがあって、収支のバランスは目立って悪化した。

この不況の深刻さと、さらにそれが長期にわたることを予想、即刻新情勢にマッチした経営に切り替える必要を痛感し、そこで当社は大幅な経費の節減とともに、従業員の減員を図ったのである。

労働組合の結成と争議

当社において労働組合が結成されたのは昭和27年11月であった。

27年といえばラジオブームと朝鮮動乱特需によって急激に組織が拡大し、本社も四条大宮北から山科日ノ岡に移転した年である。人員も27年末で約180人と膨れ上がり、その組織の急膨張を背景にして、組合が結成された。

賃金アップと退職金規定の制度化が当初の要求事項であった。労使協議の結果、賃金アップは認められたが、退職金制度については協議が続けられることになった。

その労働組合が29年になって、ストライキを決行、村田製作所創業以来の大争議が起きた。きっかけは会社の経営不振からくる給料の遅配であった。

28年夏頃から29年にかけて業界は大不況に見舞われ、当社も資金繰りの悪化から経営危機に陥った。給料も遅配が始まり、2回、3回の分割払いとなった。

そこで組合は29年8月、ストライキを決行する。

「工場がストライキをして生産がストップすれば、納期で迷惑をかけ、ひいては得意先の信用の失墜につながる。ただちにストライキを中止して欲しい」

会社側は組合にこう申し入れたが、遅配続きの給料に組合側は態度を硬化させたままだった。

その後、会社側は苦境打開のため人員整理に踏み切り、指名解雇を発表した。これが組合の猛反発を喚起し、8月14日、再びストライキに突入し、会社にたてこもった。しかし、村田社長とすれば、よくよく考えた末での決断であり、また、方法もこれしかないと踏んでの決断だった。組合の要求の前に折れるわけにはいかなかった。ストライキは1週間近く続いた。

その間、村田社長以下、経営幹部は会社に泊まり込み、事態の収拾に努力した。

組合との話し合いは難航したが、結局、指名解雇という形ではなく、希望退職を募るという形で解決点を見出し、37名の希望退職を募集することでようやく争議は収まった。

しかし従業員に犠牲者を出しての不況乗り切り策 (注17) は、村田社長の心に大きな痛みを与えた。退職者のお別れ会が工場の中でお茶とお菓子で開かれた時、村田社長は目にいっぱい涙をためて「二度とこのようなことがあってはならない」と誓った。

さらにこの時期、当社を苦しめた問題がいま一つあった。それはラジオセットメーカーからの部品小型化の要求であった。セットメーカーは不況克服のコストダウン策としてラジオ受信機の小型化をはかり、部品メーカーに対してもこれを要求した。

当時、当社は自らが音頭をとる形でJIS規格や保安庁規格の制定に力を入れ、部品の標準化を進めていた最中だった。そんなことから小型化の要求を断った。

その結果、ラジオ用コンデンサの注文は他社へ流れ、昭和28年頃には約50%の市場占有率を誇っていた当社のセラミックコンデンサは年々注文をうばわれ、39年には20%近くまでシェアダウン (注18) することになってしまった。

なお、このような中、売上高が29年7月を最低として、ごくわずかずつではあるが上昇をみるにおよんで、ようやく愁眉を開くに至ったのである。

社是の誕生

昭和29年の不況において人員整理をした苦い経験を反省し、会社の存続の危機を脱して成長・発展していくために、社長の村田昭は村田製作所の方向づけを明確にしなければならないと考え、全社員の行動のもといとする経営の基本理念を確立させる必要を感じた。

その経営理念は、まず第1に、単なる価格競争で商売をするのではなく、人のできない独自性のあるもので商売をすること。これは村田昭の父からの教えと昭自身の体験からの経営理念である。第2は独自性のあるものをつくるためには、科学的に分析し、計算ずくで抜けたところがないようにしなければならない。問題を一つ一つ洗い出して原因を追求し、科学的に仕事をやること。これは昭が特殊磁器を手がけ、チタンコンデンサを実用化する苦労の中で学んだ考え方である。第3は信用を大切にすること。これも昭の父の商売の仕方や昭自身の経験からのものである。第4として、お客様のお引き立て、仕入先の協力と従業員の努力によるお互いが助け合う感謝の心での経営であること。これは昭自身が創業以来、常に人に助けられ、引き立てていただいて今の村田製作所があるのであって、自分一人の力だけでここまでになったのではないとの思いからのものである。その他にも仕事を通じ体験した昭自身の経営に対する思想がある。

昭自身が考えてきた経営に対するいろいろな形での思想をいま一度整理し、1カ月近く呻吟 (しんぎん) の末、でき上がったのが、次のような社是である。

「技術を練磨し 科学的管理を実践し 独自の製品を供給して文化の発展に寄与することにより 会社の発展と協力者の共栄をはかり これをよろこび感謝する人びととともに運営する」

なお、創業35周年 (昭和54年) に、「文化の発展に寄与することにより」の部分を「文化の発展に貢献し」と修正し、さらにそのあとに「信用の蓄積につとめ」の語句が加えられて、現在の社是になった。

この社是を村田製作所では毎朝、全員が唱和し、会社が拠って立つ精神を確認している。

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注1)終戦まもなく、早くも民間放送の胎動が始まり、GHQによる矢継ぎ早な民主化の波に乗って、東京・大阪・名古屋に、民間放送局開設運動の火の手が上がった。22年2月、GHQから「日本の放送に対する最終的示唆」が示され、その中に民放を認める見解が表明されるに及んで、民放開設運動はますます勢いづいた。

なお第1次放送法案は23年6月の第2回国会に上程され審議未了となった。第1次放送法案にアメリカの放送制度を取り入れた、いわゆる電波3法案が24年末の第7回国会で、4カ月の審議を経て、昭和25年5月公布をみた (25年6月1日施行)。

注2)通産省の統計によれば、ラジオ受信機の生産台数は、昭和20年が8万7,000台、21年67万台、22年77万台、23年が80万7,000台と増加の一途をたどったが、24年60万9,000台、25年が28万7,000台、26年が41万1,000台と減少している。しかし、この数字は本文記述のように当時の実情を伝えていない。

注3)当社の品種別数量統計は昭和49年からしかないので、この当時のセラコンの生産量の推移は正確には記せない。

なお、『通産省機械統計年表』による27年以降の蓄電器 (セラコン以外のコンデンサも含む) 年間生産数量は、27年の2,025万1,000個が28年7,438万5,000個、29年7,224万6,000個、30年9,146万1,000個と、3年間で4.5倍にふくらむ。

注4)この開発は入社まもない大阪大学物理学出身の脇野喜久男が担当した。

注5)原始定款制定 昭和25年12月6日

会社設立発起人 村田昭
小西貞一郎
岡崎清
利治
田中哲郎
村田静榮
岩田幸子

注6)昭和25年の秋、村田昭は福井県窯業試験場に千田信惇氏を訪ねた。北陸本線の鯖江駅で鯖浦線に乗り換えて40分、江波駅に下車。それから行けども行けども山また山で、狐に化かされ道を間違えたのではないかと思うほど、人里離れたへんぴな場所に試験場はあった。「先生は一晩、歓待してくださった。宮崎村では最近、良質の陶石を大量に埋蔵していることがわかり、県も開発に乗り出しているとのこと。そして土地の人々が開発に力を入れていて、将来はこの地を窯業の中心地にしようと意気込んでいるということを力説されたうえで、私に『ここに工場を作らないか』と熱心に勧められた。『考えてみます』と答えたものの、そのときはこんな山奥ではというのが私の本音だった」(村田昭『不思議な石ころ―私の履歴書』)

そして、このたび重ねて誘致を受けたのであった。

注7)泉涌寺の登り窯で実験的に、松割木を燃料に、酸素不足状態の還元雰囲気で焼いたところ、酸化チタンの酸素が奪われ真っ黒なチタコンになるかと思いきや、還元せずに見事に焼けた。このことを村田昭は思い起こしたのである。

注8)当時は東京に強いコンデンサメーカーがあり、なかなか食い込むのは難しかった。めざす会社を訪ねると、「村田製作所なんて知らない。通信機には認定やいろいろな試験があって、なかなか難しい。第一、京都などという遠い所から買う必要もない、東京で間に合っている」とけんもほろろ。「とにかくサンプルだけでも置いていきますから、試験をしてみて下さい」といって無理やり頼み込んでくるという状態だった。

注9)当社がそこまでの品質の製品をつくるには、それなりのいきさつがあったことについては、2章2節に述べた。すなわち、村田昭が、チタンコンデンサに寿命がある、と知り、京大田中研究室に駆けつけ、どこにその欠陥があり、どうすれば寿命の長いチタンコンデンサができるかを分析、研究してもらった。いわば、そういう苦心の末に生まれた製品をもって、日本電気を訪ねたのだった。

その後日本電気の社長・会長を歴任した小林宏治氏が当時、多摩川事業所の事業所長で、当社のチタンコンデンサを高く評価し、採用してもらった。

注10)昭和27年の「経営方針」では、「基本は独占政策の遂行にある」とし、 (イ) より良い品を適正な価格で市場に出し、かつ適正利潤を確保する為に独占が必要である。 (ロ) 現在、村田製作所の中途半端な独占状態は需要者に不安感をいだかしめ、同業者又は野心家を刺激して生産を計画させ、遂に二、三の新しい業者が出来つつある。 (ハ) このようなものを一日も早く解消または中止させねばならない。という方針を定めている。

当社の年度方針としては最初である「昭和28年度方針」は、27年の経営方針を具体化し、市場分散化政策として通信機、ラジオおよびIFT市場と市販の3者が同比率になることを最も理想とすることを定めている。これは、(1) アマチュア用問屋向け売り (市販) は利幅が大きく現金収入となる。(2) IFTメーカー向けは同じ品種の数が多く売れる。(3) ラジオメーカー向けは回路用のため品種が多い。(4) 通信機メーカー向けは数が少なく品種は多いが高く売れる。という市場の特質の違いを活かし、市場の変化に対して資金・生産販売の安定を図ることを目的としたものであった。

注11)とにかく当時は、試算表の貸借が合わない、あるいはちょっとした事務的なミスから小切手が不渡りになる、手形が落ちないといったことが何度か発生した。それほど事務量が多く、限られた数のスタッフでは処理し切れなくなっていたのである。

なかでも決算書の作成は大変で、記帳漏れや誤びゅうで数字が合わず、申告間際になると最後の追い込みで計理士の家で経理担当者は徹夜、そして申告期限ギリギリの1月31日に京都駅前の中央郵便局へ駆け込んで受付印をもらったという。

注12)2kgを現在のセラミックコンデンサの主力である積層チップコンデンサの重さと比較した場合、20万個分ほどに相当する。

注13)当社は、この“世紀の材料”チタバリの発見から実用化までの歴史を記録にとどめておく必要があると考え、先生方に執筆をお願いして、『驚異のチタバリ』(丸善) を平成2年に刊行した。

注14)「不況の思い出ばなし」で村田昭は28〜29年のそれを次のように語っている。

「昭和28年ころから大手メーカーの支払いはだんだん悪化しはじめ、29年夏には売掛金が6カ月分に達しても容易に支払ってもらえないし、二流メーカーはバタバタと倒れましたが、この方は前回にこりているので警戒をしていたので大した被害もなくてすみましたが、受注は激減して在庫は2カ月分にもおよんで全く手がつけられなくなりました。そんなことで経営は極度に悪化し、一般仕入先の支払いはもちろん給料も遅配して多くの人々に大変ご迷惑をおかけしました。そして倒産一歩前で住友銀行と住友生命のお力ぞえでどうにかピンチをのがれることができたのでした」

注15)コンデンサ電極用の銀を、当社はそれまで現金で買っていたが、現金収入がないことから手形払いを申し入れた。ところが取引先の銀地金屋は現金でなければ売らないという。やむなく経理担当役員の荒木千一が自所有していた銀行の株券を担保に、銀行から特別融資を仰ぎ、また生命保険会社に社員保険を掛けて300万円を借り、この経営苦境を乗り切った。

またこの頃、早川電機 (現・シャープ) が日本で初めて白黒テレビの開発に成功、株価が一時1,000円を超えるほど暴騰した。昭和24年当時、売掛金の代金として受け取った早川電機の株式を処分して従業員の遅払い給料の一部に充てたこともある。

注16)昭和28年9月8日に有償増資 (縁故募集、運動資金)、資本金360万円となる。

注17)昭和29年不況に対する社長方針

「危機乗切に就いて」昭和29年9月4日

前文より……当社は経営不振の為非常な難局に直面し、従業員諸氏に多大の御迷惑を掛けていることについて甚だ遺憾に存じて居ります。私達は堅い決意と勇気を以てこの危機に当るべく構想を練って居りましたが茲 (ここ) にその基本方針を披瀝し、中堅諸氏の協力を得て所期の目標を完遂したい。

注18)昭和28年頃、ラジオが月産20万台とテレビが月産1,000台でセラミックコンデンサ (セラコン) の需要は月146万個で、当社の生産数量は月60〜70万個であったので、シェアは約50%であった。(データ: 28年度経営方針書より)

32年には、ラジオが月産31万台とテレビが月産5,000台で、セラコンの需要は月470万個で、当社の納入数量は月236万個であったので、シェアは50.5%であった。(データ: 社内報『明るい仲間』33年3月号より)

それが39年には、セラコンの国内生産数量が月1億0,500万個に対して当社の納入数量が月2,400万個であったので、シェアは23%であった。(データ: 開発銀行融資申し込みの作成資料より)

このシェアダウンは、ラジオ市場の超小型セラコン分野を放棄したことによる。その後トランジスタラジオが出現し、ラジオの輸出も増え、1台当たりのセラコン使用数は多くはないが、国内のテレビ需要に匹敵するセラコン市場に成長する中で、大きくなった市場でのシェアが低いために当社のシェアが落ちることになった。加えて、高価格分野であったテレビ市場に販売の重点を置く販売戦略の中で、市場見通しの甘さから、需要に対して供給が間に合わず、テレビ市場でのシェアを落としたことも、シェアダウンの要因であった。

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