Japan / MURATA MANUFACTURING CO., LTD.
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第4章 独自製品への研究開発の取り組み技術の村田を目指して (1955〜1961年)

1. 高度経済成長と電化元年

神武・岩戸景気の到来とイノベーション

昭和28年末から金融引き締めが強行されてわが国は厳しい不況に当面したが、30年に入って日本経済もまた回復に転じた。

かくて、経済白書 (昭和31年版) も「もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によってささえられる」と述べている。経済成長の原動力に技術革新 (イノベーション (注1)) をおく政府の施策と企業における積極的な経営マインドとが相まって、新技術の採用、新製品の開発など、工業近代化のための設備投資を呼び起こした。この結果、この民間産業における設備近代化と技術開発のための旺盛な投資が、昭和30年代の日本経済の高度成長をリードした。まさに“投資が投資を呼び”、全産業に波及して、いわゆる神武景気を現出させたのである。

いまや技術革新は新製品の生産を通じて、生産・市場構造に大きな変化をもたらし、同時に企業経営のあり方そのものにも少なからず影響を与え、その革新をも迫った。

テレビなど家電ブームの爆発的広がり

国民生活は、住宅を除けば、昭和30年頃までにほぼ戦前の水準を回復した。この頃から生活構造の一大変革が始まる。それは家庭電化製品の急速な普及 (注2) によって生じた。29年から33年までの5年間にテレビ受像機の生産はじつに47倍、電気冷蔵庫は24倍、電気洗濯機は3.7倍と飛躍し、これら3商品を家庭における“三種の神器”と呼んだ。

このような消費革命をもたらした原因には、高度成長により賃金など個人所得が伸びたこと、国民の生活様式が洋風化し合理的で便利な暮らしを求めたこと、これら家庭電化製品の価格が量産効果 (注3) で低下したこと、メーカーによる販売店のチェーン化とアフターサービス態勢が確立され、また月賦販売の一般化が進行したこと、テレビを含めたマスメディアの広告宣伝により消費者へのデモンストレーション効果が生まれたことなどが挙げられる。とくに、テレビの普及が先行したことは、それ自体が情報伝達の手段としての機能をもっていただけに、家電ブームの開花を促すには格好のものであった。

なお、テレビについてその普及をみれば、前記した昭和28年のNHK東京 (2月)、日本テレビ放送網 (8月) の放送開始に次いで、 NHKは29年3月には大阪、名古屋、31年3月仙台、広島、同4月福島と開局が続き、民放テレビ局も34年末までには全国43社45局が ほぼ開局した。これによりテレビ受像機の生産も29年3万台、30年13万6,000台、31年31万2,000台、32年61万2,000台、 33年120万5,000台、34年267万2,000台、と倍増のペースで増えていった。

とくに34年は、4月に皇太子 (現・天皇) のご成婚が挙行され、そのテレビ中継が普及に大きく拍車をかけた。 この年テレビ受信契約数は200万世帯を突破した。

トランジスタラジオの誕生と急伸

テレビ時代の始まりとほぼ時を同じくして、家庭電化ブームの一翼を担ったのがトランジスタラジオである。 昭和30年8月、現ソニーの前身・東京通信工業が、世界初のトランジスタラジオを発表、トランジスタラジオ時代の幕を開けた。

トランジスタは、ゲルマニウム・シリコンなどの半導体の特性を利用した増幅器であり、これまでの真空管にとって代わる機能をもつ。 1948年 (昭和23) に米ベル電話研究所で発明されたものであるが、アメリカでは主に軍用として応用され、均一の特性をつくるのが難しく 価格も高いところから、民生分野ではほとんど使われていなかった。

わが国でも翌昭和24年から電電公社の電気通信研究所やメーカー各社がトランジスタ開発の基礎研究を始めた。 その結果、28年通研が接合型トランジスタの試作に成功し、翌29年には東京通信工業と神戸工業 (現・富士通テン) の両社が 他社に先がけて工業化に着手、トランジスタの単体販売を開始した。

さらに東京通信工業はラジオ受信機のトランジスタ化に成功し、30年8月これを発売するとともに、いち早くトランジスタの 量産を開始した。

持ち運びに便利な小さなトランジスタラジオは、ラジオ受信機はお茶の間に置くものというこれまでの観念を変えて、 個人用というマーケットを拓いた。かくてほかの電機メーカーもこぞってこのトランジスタラジオを生産、市場に参入するに至って、 32年7月にはトランジスタ式ラジオの生産台数が早くも真空管式のそれを上回り、32年64万台だったその生産台数は、 34年には一気に796万台と12.5倍の増加を示した。そしてそれらの多くは輸出に振り向けられ、外貨獲得の有力な武器となったのである。

昭和32年6月、電子工業振興臨時措置法 (注4) が公布された。欧米諸国に比べ立ち遅れている日本の電子工業を官民一体でもって 振興させていこうというのが、その法律の狙いであった。いわば日本のエレクトロニクス時代の始まり、それが32年前後であったと いえよう。

なお、こうしたテレビやトランジスタラジオなどの電子機器に不可欠の部品がセラミックコンデンサである。当社はその急増する需要に応えていかなければならなかったが、それにも増して急務だったのが、技術開発体制の強化であった。 エレクトロニクス業界はとりわけめざましい技術革新の時代に突入しているのであり、その時代の中で企業として成長していくためには、 独自の製品の研究・開発が不可欠だった。

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2. 技術開発体制の強化

村田技研の設立と長岡町への進出

テレビ時代の始まり、トランジスタ時代の出現  まさにエレクトロニクス業界に大きな技術革新が起こっていた。

エレクトロニクスという言葉がいつ頃から使われ出したのか定かではないが、昭和32年に電子工業振興臨時措置法が公布された頃から盛んにエレクトロニクスという言葉が使われ始めた。つまりトランジスタの出現は、従来の電気工業の一部であった弱電部門が電子工業として独立し、その英語訳ともいえ“エレクトロニクス”という言葉を生んだ。今そのエレクトロニクス時代が始まろうとしている。

当社としてもその技術革新の波に対応していかなければならない。セラミックコンデンサはアメリカの同業メーカーの製品の物真似をしてできたものである。これからの村田製作所は世界にないものをつくらねばならない。そのために、第1に独自の製品の開発と、第2に過去の不良の教訓からの品質管理がされた生産技術の革新の確立である  村田昭はそう考えた。

「技術を練磨し 科学的管理を実践し 独自の製品を供給する」とある社是の精神を実現するためにも、技術開発力の強化は急務であり、また今後の村田製作所の進むべき道であった。

昭和30年4月、試作室と呼んでいた研究部門を分離独立させ、株式会社大宮技研を設立した。佐利治、脇野喜久男たち総勢8名の陣容で、旧本社だった四条大宮北の工場をこれに充てた。

しかし、四条大宮北の工場では規模が小さすぎ、環境的にも満足のいくものではなかったので、現在の本社がある長岡京市 (当時は乙訓〈おとくに〉郡長岡町) に8,000坪の土地を求め、当時、一面竹が生い茂るうっそうとした竹やぶを切り拓いて、100坪ほどの研究棟とその隣に200坪ほどの試作工場を建設した。31年6月、大宮技研は株式会社村田技術研究所と改称、翌7月この長岡京の地に移転してきた。

なお、研究所を株式会社村田技術研究所と本社から切り離した独立の組織 (注5) としたのは、研究所から生まれた技術や焼き物を本社や地方にある工場に売り、その売り上げでもって研究所の経営を成り立たせる、いわゆる独立採算制で運営させる狙いからであった。

研究開発組織の確立

昭和31年10月から活動を開始した村田技術研究所は、当時の村田製作所の規模からすれば、まさに身分不相応な豪華な研究所であった。研究所自体は4つの研究室と事務所があるだけであったが、研究設備は電子顕微鏡、X線回析装置、分光分析装置など、当時の中小企業ではまず考えられないような最新式のものを完備させていた。一方、試作工場には、原料の粉砕・混合用のトロンミルがずらりと並び、粉末成形用のロータリータブレットマシンもすぐに動かせる態勢にあり、さらに素晴らしい威力が期待される2本の高温焼成用電気トンネル炉も間もなく完成する。当時の村田昭社長の研究所に賭ける思いがいかに大きなものであったかがうかがえる。

研究所の組織は4研究室体制から成っていた。京大の阿部、田中両先生を技術顧問に迎え、社長と4人の新進気鋭の研究室長が両先生と相談をしながら研究テーマを決めていく、そのような方法で研究活動をスタートさせた。

まず第1研究室室長に就いたのが、京都大学電気工学科出身で、阿部・田中両先生の弟子に当たる佐利治。佐利は25年に大学を出て当社に入り、電々公社用パワーコンデンサの開発などを手がけてきた人物である。チタバリを使った半導体 (注6) の開発が第1研究室のテーマとして与えられた。

第2研究室室長に就任したのが藤島啓。藤島もやはり阿部・田中両先生の弟子で佐利と京大の同級生。大学を卒業すると日本無線へ入社、チタバリ振動子を使って魚群探知機の製作などを手がけていた。

研究室の開設に当たって、どうしても必要な人材と考えた村田昭が日本無線の中島茂専務に三拝九拝して承諾してもらい30年9月に入社。藤島の第2研究室が受け持ったテーマは、圧電体の応用研究である。

第3研究室の室長になったのが脇野喜久男。脇野は旧制三高時代佐利と同級、大学は大阪大学物理学科へ進んだ。大学卒業後、他の会社に就職していたのを、27年2月にスカウトした。入社後、防衛通信関係のコンデンサ開発を手がけた功労者である。

脇野に与えられたテーマは材料の開発。酸化チタンや誘電体、圧電体など当社の基本技術であるさまざまな材料の研究と新材料開発それに分析技術が第3研究室のテーマだった。

そして第4研究室の室長に就任したのが小澤寿一郎で、京大物理学科の出身。京大では佐利や藤島の1年後輩。小澤に与えられた研究テーマは金属皮膜抵抗であった。

このような陣容と研究体制でもって村田技術研究所はスタートした。4人の研究室長には雑事にわずらわされずに研究に専念して欲しいという配慮、また最新技術の機密保持ということも考え、本社や工場の人たちの研究所への出入りを禁止した。

かくて4研究室がそれぞれテーマをもって、新しい製品を開発すべく研究を開始した。〈新しいものに挑戦し、新しい分野を切り拓いていきたい〉。社是にあるように独自の製品をつくらねばならなかった。

これらのことを通じて「技術者には自由な雰囲気の中で新しい技術に挑戦し、成し遂げ、成功してもらうようにする」、「材料から一貫した独自の製品開発を行う」また「研究開発に対しては思い切った投資を行う」という経営哲学を生み、その後の研究・開発に対する基本の考え方となった。

村田技術研究所は、当時の村田製作所の規模にしてはまさに画期的な研究開発体制だったといえるが、もう一つここでは野心的な試みが実行に移された。それは新しい人材育成の試みであった。

村田昭社長は、過去の不況の経験から、不況に強い経営体質をつくっていくためには優秀な人材の採用と教育訓練以外に方法はないと考え、その実験をこの研究所で行おうとしたのである。

そこで昭和32年、初めて大学卒の定期採用を始め、2名が入社した。その一人が同志社大学大学院法学研究科を出た山村和夫 (現・副社長) である。翌33年には広く各大学に一般公募の形で求人を行い、9名の入社をみた。現・副社長の神戸大学法学部を出た泉谷裕はその時の入社組である。

その教育であるが、技術系については社内に人材もあり問題はなかった。ところが事務系については指導できる人材がいなかった。やむなく新入社員の中から講師を選んで切り抜けた。

さらに昭和32年組と33年組の幹部候補生の中から4名に対しては、子会社の福井村田製作所の村田治専務 (現・村田製作所会長) が教育係となり、現場での実習、次いでラインへ配属し仕事を通じての実践教育、そして3週間ほど朝から晩まで本を読ませる座学教育が実施されたが、このように早い時期から新入社員の教育に力を注ぎ、人材の育成を図ったのである。

新技術・新製品の開発

大きな期待をかけて設立した村田技術研究所だったが、新技術や新製品などというものはそう簡単に生まれるものではない。その一方で研究費は少々オーバーにいえば湯水のごとく出ていく (注7)。研究というものは昔も今も金食い虫に変わりはない。

しかし、何年かたつうちにその研究所の中から、いろいろな技術や製品が生まれてくるようになるのである。

その代表的な技術が半導体セラミックス技術の開発であり、また圧電セラミックス技術の開発であった。

1. PTCサーミスタの開発

現在、“ポジスタ”の商品名で販売されているPTCサーミスタもこの村田技術研究所から生まれた。きっかけは阿部技術顧問の指摘だった。

研究熱心な阿部技術顧問は京大定年退官後も家でよく各種文献に目を通しておられて、「チタン酸バリウムを半導体とすると、既存の半導体には見られない異常な正の抵抗温度特性を示すということがアメリカの文献に出ている。まだ詳細な研究はやっていないようだから、早く研究するように」と勧めてくださった。33年9月頃のことだった。

早速、佐利治の第1研究室が中心になって研究を始めた。すると、微量の不純物の種類や量を調整することによって、ある一定の温度内では電流が流れるが、それ以上の温度になると抵抗値が急上昇して、電流が流れにくくなる特性をもち、材料の配合によって、-50℃から+200℃以上の広範囲で、その特性をコントロールできることが材料開発を担当する脇野によってわかった。

このセラミック半導体を開発した時、いちばん気がかりだったのは、「これははたして商品になってくれるだろうか」という点だった。というのも従来の新技術や新製品というものは、真空管と置き換えるためにトランジスタが商品化されたように、たいていの場合、在来製品の市場が存在していた。しかし、このセラミック半導体には在来製品の市場がない。

そこで考えられるアイデアを徹底的に検討した。そして最終的に考え出したのが、ヒータと温度センサと電力コントローラの機能を備えた「自動温度調整装置」で、昭和34年2月に特許出願した。

当社はこの商品を“ポジスタ”と名付け、34年から販売を開始したが、セラミック半導体を世界で初めて商品化したのは村田製作所である。この“ポジスタ”は1962年度 (昭和37) の日刊工業新聞社の10大発明の一つに選ばれた。

その“ポジスタ”の用途開発 (注8) は進み、電子あんか、電子炊飯器、ふとん乾燥機などの中心部品として採用され、新しい市場を創り出した。さらにはカラーテレビに地磁気の影響によるカラーバランスの歪が起こらないようにする消磁回路用の用途も生まれた。

2. 圧電セラミックス技術の開発

メカニカルフィルタ

“世紀の材料”といわれたチタン酸バリウムは、誘電特性の応用では成功したものの、もう一つの特性である圧電特性を生かした製品については、なかなか成功しなかった。

そこで田中哲郎教授に「もう10年ほども研究を続けているのに、いっこうに圧電製品の売上高が伸びない。先生、何かいいアイデアはないですか」と相談をしたところ、返ってきた返事というのが通信機用フィルタの開発というテーマだった。

フィルタというのは、不要な電波を遮断し、必要な電波だけを通過させる、いわば電波のろ過器のことを指す。ただ、通信機用フィルタは1個が約1万円と値段は高いが市場規模が小さい。月1,000台の通信機が生産され、そのフィルタのすべてを当社が供給したとしても1,000万円の売上高にしかならない。それに比べラジオ用フィルタならば、3個1組で100円ほどの値段であったが、市場規模が大きい。当時、ラジオは月産約100万台に達しようとしていたから、単純に計算して1億円の市場になる。「安いものほどつくるのが難しい」と主張する田中教授と経営者としての村田昭社長との間には激しい議論が闘わされたが、結局、村田社長の主張が通り、第2研究室の藤島が中心になりラジオ用フィルタの開発が行われることになった。

かくて昭和32年、それでも田中先生は村田社長の考えに協力して、田中先生の発案によるラジオ用メカニカルフィルタ「MIFT-B」が開発された。ボールベアリングの機械的な振動を利用し、チタン酸バリウムの高能率な圧電特性を利用したフィルタであった。ただしこのメカニカルフィルタは、ボールベアリングに歪があり、そのために良品率が悪く、量産品としては成功しなかった。しかし、その知見が次の製品・・ラジオ用フィルタの「455kHzセラミックフィルタ」を生むのである。

チタン酸ジルコン酸鉛

その頃、圧電材料としてチタバリよりも特性の優れた材料、チタン酸ジルコン酸鉛 (略称PZT) は、この組成の材料自体の基礎研究は東京工大の高木研究室で始められていたが、アメリカ標準局のB.Jaffeによって圧電材料の有用性が発見された。早速、第3研究室の脇野が短期間でその材料を開発、そのPZTを使って第2研究室の藤島がセラミックフィルタの開発に取り組んだ。しかし、その完成に成功するまで6年という長い時間を要することになるが、後にそのセラミックフィルタが当社のドル箱といわれるような大きな製品に育つのである。

“ピエレフォーク”

圧電製品として村田技術研究所から生まれたもう一つの製品は“ピエレフォーク”。圧電音叉発振子といわれるものである。

“ピエレフォーク”とはPiezo Electrie Tuning Forkの意味で、圧電振動子で駆動させた音叉が共振周波数で振動し、その共振周波数を圧電振動子が特定の周波数の電気に変換するものである。このような機械的に振動する素子は水晶共振子、電磁駆動音叉などの形で通信、制御、計装などの方面に古くから用いられてきた。

“ピエレフォーク”は、音叉発振子として小型、簡易、頑丈な点で格段の特徴をもっており、これらの特徴は圧電振動子を音叉本体の表面に直接接着していることによるものである。タクシー無線、ポケットベル、船舶電話など離れた場所との無線通信機器などに使われている。

3. 半導体コンデンサの開発

チタバリをその材料として使ったセラミック半導体はまた、コンデンサとしての機能をもつこともわかり、そこで開発されたのがセラコン-BCであった。小型で大容量が得られるところに大きな特色があり、回路の小型化、軽量化の要求に沿うものであった。

従来のセラミックコンデンサは誘電率が大きいものがあるが、どうしても誘電率の温度特性が犠牲になるという欠点があった。その点セラコン-BCは容量が大きくなっても温度特性は変わらない。まったく新しい原理によるコンデンサであった。

4. 酸化鉄オーカー (黄色顔料) の開発

酸化鉄オーカー (黄色顔料) も村田技術研究所で事業化の研究がされた製品の一つである。

鉄屑と硫酸鉄からつくられるもので、顔料のほかフェライトの原料となる。ビデオテープやオーディオテープに塗布されている粉末鉄粉もこの酸化鉄オーカーと同じものである。昭和36年に村田技術研究所特別研究室の小田基礎は、その酸化鉄オーカーの製造法で社団法人発明協会の特賞を受けた。

酸化鉄オーカーの事業は、硫酸鉄を原料とするために、京都では立地条件としても悪かったので、事業全般の検討の中で事業を断念することとなった。

量産機械加工のための生産設備の開発

製造設備や加工機械の製作は、創業以来、一貫して手がけてきたことだが、村田技術研究所もまた新製品の開発と同時に、生産設備の開発を心がけた。

半自動銀塗印刷機の試作も手がけた。当時、工場ではまだ手回しろくろやシルクスクリーン方式で、一枚一枚コンデンサに手で銀電極を塗っていた時代。この半自動銀塗印刷機やコンデンサの自動選別機によって、コンデンサも手作業から機械装置を使った量産時代へと移っていったのである。また、半自動銀塗印刷機は後に出てくる全自動両面銀塗印刷機の基礎機械ともなった。

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3. 生産体制の整備と拡充

セラミックコンデンサ需要の急増と長岡事業所の拡張

前述のように昭和30年後半から31年いっぱいにかけての神武景気、32年下期からの岩戸景気の到来で、この間、電子機器業界は白黒テレビ、トランジスタラジオという大型製品が出現、活況を呈した。

とくに33年は翌年に皇太子 (現・天皇) のご成婚を控えていたということもあって、白黒テレビが爆発的な売れ行きを示した。

コンデンサはテレビ、ラジオには不可欠な部品であることから、それだけに当社にセラミックコンデンサの注文が殺到し、いくらつくっても注文に間に合わない状況になり、生産体制の増強を迫られた。

そこで急きょ、村田技術研究所の中の原料工場、窯業工場 (半製品工場) を拡張するとともに、33年9月、400坪のセラミックコンデンサの加工工場を建設した。しかし、それでも需要に追いつかず、翌34年1月、1,500坪余りの工場増設に着手、6月に竣工した。当時、村田技術研究所の従業員は200名ほどだったが、とうていそれでは間に合わず、毎月100名からの人員を採用するといった状況だった。

福井村田製作所設立と武生工場の建設

昭和30年4月、当社はセラミックコンデンサの生産基地として建設した福井工場を分離独立させ、株式会社福井村田製作所を設立した。ほぼ同時期に発足させた村田技術研究所 (当時は大宮技研) と同じく、子会社制にし独立採算制でもって経営できる体制にしようという狙いからである。

かくて福井村田製作所は、急迫するセラミックコンデンサ需要に応えるため、これまでの小曽原工場における3,000坪増築を34年2月に竣工させるとともに、前々から熱心な工場誘致 (注9) を受けていた武生市に、その第2工場として武生工場 (敷地7,000坪、建坪3,000坪) を建設、操業を開始した。

この発足に際し、社長の村田昭は「ここにこの工場があることが、この村の喜びであり、誇りであるようにしたい」というスローガンを掲げた。この考えがその後に子会社を独立運営する考えの基本として「そこに村田製作所があることが、その地域の誇りであり、喜びである事業所にしたい」という考えを内外に表明し、これがその後の工場づくりのベースになってゆく。

なお、この武生工場は翌35年3月に福井村田製作所から分離・独立し、株式会社武生村田製作所として発足する。

京都山科地区工場の再編

昭和30年代前半は当社においては、まさに工場増設の時代でもあった。ラジオ、テレビ用セラミックコンデンサは主に福井地区をその生産拠点としてきたが、それでは生産が間に合わず、村田技術研究所のある長岡に生産工場を建設、需要増大に対応したのであった。

一方、本社の所在した東山区山科地区の工場もこの時代に大きく再編成された。すなわち、これまで山科地区は第1職場から第3職場まで3つの工場に分かれていたが、それぞれ分離独立させた。

まず34年8月、第3職場を山科御陵山ノ谷町に移転し、株式会社ミササギ製作所として分離独立させ、さらに山科上野御所ノ内に移転した後の36年5月、このミササギ製作所を株式会社山科村田製作所と改称した。通信用コンデンサやCRブロックなどの半製品を長岡事業所から購入、それにリード線を取り付け、樹脂塗装をして完成品に仕上げるのである。

また同時期の36年4月、ミササギ製作所の山科御陵山ノ谷町にあった第2工場 (旧・第2職場) を株式会社御陵村田製作所と改称、分離独立させた。ここも通信機関係のコンデンサ組立工場である。

さらに同時に、第1工場 (旧・第1職場) を株式会社日ノ岡村田製作所として分離独立させている。ここでは電力用磁器コンデンサ、高圧コンデンサの成形から完成までの一貫生産と防衛庁向け製品の生産が行われた。

かくて、36年2月に村田製作所の本社はこの山科地区から乙訓郡の長岡町に移転したが、旧本社工場をそれぞれ再編成し、分離独立させることによって、独立採算制の徹底とより効率的な運営をめざした。

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4. 原材料からの一貫生産を確立

八日市工場の建設

昭和30年代前半のセラミックコンデンサ需要の増大、さらに将来の需要増の予想から、当社は窯業部門の拡張を迫られるに至った。

31年に村田技術研究所の中に試作工場をつくって以来、原料や焼き物 (半製品) は長岡京市の試作工場で生産し、子会社へ供給していた。子会社はその半製品に電極を塗布したりリード線を付けたりなどして製品に仕上げていたのである。

しかし民生市場の拡大でセラミックコンデンサの生産量が増えてくると、村田技術研究所の試作工場だけではもはや手狭であった。また、窯業の製造技術や設備の革新も不可欠なことから、新しい窯業工場の必要に迫られた。

そのような昭和34年に、滋賀県から工場誘致の話がもち込まれた。滋賀県の産業構造を食品・繊維から近代工業に転換すべく、八日市の旧陸軍八日市航空隊跡地に一大工業団地をつくる計画が進められつつあった。

当時、名神高速道路の工事中で、近くにインターチェンジができる予定にもなっていた。

比較的安価な土地価格、創業後3年間の固定資産税の減免措置などの有利な条件もあり、そこで当社は工場進出を決定、34年12月18日八日市との間に工場誘致の覚書に調印した。飛行場跡の約3万坪を用地として買収し、36年7月24日に地鎮祭を行い建設に着工した。

工場建設を担当したのは「八日市工場建設委員会」で脇野喜久男 (当時材料技術部次長、35歳) 以下4名の委員で、脇野を除けば入社1〜2年の社員 (注10) ばかりだった。

37年3月26日、操業開始にこぎつけ、第1期生の入社式を行った。1期生は高卒男子8名、高卒女子4名、中卒女子22名の合計34名であった。

窯業の合理化と革新

八日市工場はセラミックコンデンサの原料調合から成形、そして焼成までの窯業工場である。この八日市工場の建設によって原材料から焼き物までの一貫生産が可能になり、当社の生産体制は大きく拡充されるに至った。

このことは「源流での管理を徹底する」という社長村田昭の考えにもとづくもので、原材料からの品質や生産を科学的に管理することによって、真に市場が求める製品の性能・品質・納期・サービスなどが可能になるとの思想によるものである。

八日市工場は新鋭工場にふさわしく、新しい設備の導入や工程にさまざまな工法が盛り込まれた。

その第1が仮焼工程における量産用大型ロータリーキルンの導入である。

セラミックス製品が完成するまでの製造工程は原料、成形、焼成、加工、検査と大きく見て5つの工程があるが、ここ八日市工場で行われているのは焼成工程まで。その焼成工程までをさらに細かく分ければ、原料調合、粉砕、かくはん、検査、微粉砕、仮焼、再混合粉砕、乾燥、プレス成形、打ち抜き、シート成形、焼成といった具合にいくつかの工程がある。

この仮焼工程の中に長岡事業所で小型ロータリーキルンの実験成功をうけて、初めて量産用大型ロータリーキルンを導入したのであった。

従来は2つの素原料を湿式混合したあと脱水乾燥し、乾燥ケーキをつくり、これをセラミックでできた匣 (さや) 鉢に入れて電気炉で仮焼していた。

ある時、社長の村田昭が「チタバリもセメントを焼成するロータリーキルンで焼けないものか」と提案、検討が始まった。ロータリーキルンを用いれば素原料を混合したスラリーを脱水・乾燥することなく、直接キルンに投入できるとともに、匣鉢を使用せずに仮焼ができるので、熱効率面からも品質のばらつき面からも大きなメリットが期待でき、そのうえ結果として短時間に大量の仮焼が連続的に行えるという、いわば一石三鳥の成果が期待できるものであった。

実用化に当たっては、炉壁耐火物との反応や、“壁付き”の問題など多くの困難があったが、脇野の指導のもと八日市工場はじめ関係技術者の昼夜を分かたぬ努力によりこれを一つ一つ解決し、生産性や品質面でも画期的な成果をあげることができた。

もう一つ当時の窯業工程合理化の上で見落としてはならないのが乾燥工程でのスプレードライヤの導入であった。それが当社の中で初めて導入されたのは昭和34年頃のことであったが、八日市工場にも導入され、乾式成形用原料の量産化に大きな威力を発揮することとなった。

スプレードライヤはもともとデンマークやオランダなどの北欧で、ドライミルクをつくるのに使われていたもので、日本でもインスタントコーヒーの粉末をつくる際に利用されていた。しかし、スプレードライヤが当時利用されていたのは、比重の軽いものへの応用で、セラミックのような比重の重いものへの応用がはたして可能かどうか問題はあった。

スプレードライヤ導入も社長の強い勧めによるもので、早速、八方精機製作所の遠心式噴霧乾燥機の試験機を借用してテストをしたところ、多少の問題点はあるが十分使えることがわかり、導入に踏み切った。しかし、八方精機製作所に発注したものの、機械の完成までに倒産し、機械のノウハウもなく、代金の前払いなどで窮地に至ったが、八方精機製作所の下請業者の協力を得て、実損もなく完成したことがあった。

その後、さらに効率のいいノズル式噴霧乾燥機が導入されるが、ロータリーキルンといいスプレードライヤといい、他業種で使われている機器をいち早く工程に導入、生産方式の革新、合理化を成しとげていった。

この生産方式の革新の他、熱ロールでセラミックシートをつくり、円板形にパンチングする成形方式も開発し、低圧用セラミックコンデンサの厚みの薄い磁器素体の製法の確立もあった。

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5. 海外市場へのアプローチ

村田昭社長の初渡米

村田製作所が海外市場にアプローチを始めたのは昭和30年代の前半である。トランジスタラジオが量産され、輸出の花形商品になっていく中で、当社もまた海外市場というものを意識し始めた。

昭和32年3月、社長の村田昭は佐利治取締役とともにアメリカへ旅立った。

「村田製作所が世界の技術と肩を並べていこうというなら、一度、IRE (ラジオ工学会) ショーを見ておいたほうがいい」という日本無線の中島茂専務の勧めによるものだった。IREショーは、現在IEEE (電気電子工学会) ショーと名を変えているが、毎年ニューヨークで開かれている電子部品などの展示会で、世界の最高水準の電子部品がそろう。

社長と佐利はIREショーを見学する一方で、この際アメリカの電子部品の生産や研究開発の実態を見ておこうと、約80日間かけて全米の多くの都市を回り、コンデンサの原料メーカーや製造装置メーカー、大学、研究所などを訪問した。

また日本の電子部品がどのくらい通用するか、試してみようと、大手セットメーカーのRCA社などに飛び込みコンデンサの売り込みも行ったが、まともに取り合ってはくれなかった。

翌年さらに同業のコンデンサメーカーを訪ね、下請けなどの協力関係を提案してみたが、日本のメーカーなどを相手にする気はないとあしらわれる始末であった。

当時、アメリカは世界の金の75%を所有、世界はアメリカを中心にして動いていた。アメリカの全盛時代である。日本の電子工業などアメリカの視野にはなかったといってよかろう。

約80日間のアメリカ視察旅行は、具体的な成果はなかったが、アメリカの経済力の大きさ、技術水準の高さなど強烈な印象を両人に植えつけた。世界への目を開かされ、これからは世界を相手にしなければ駄目だ、一日も早くアメリカに追いつき追い越し、世界のムラタへ飛躍しようという強い決意を固めるに至らしめた。

外国係の発足とセラミックコンデンサ初輸出

当社がアメリカに向けてセラミックコンデンサの輸出を本格的に手がけるようになるのは昭和34年に入ってからのことである。34年6月、米オレゴン大学を卒業した明比達也を採用、その明比に大卒女子社員1名を加えた社長直属の外国係を発足させ輸出に取り組む (注11) こととなった。

輸出については当面、アメリカの大手ラジオ・テレビメーカー10社をその販売ターゲットとした。RCA、GE、モトローラ、ゼニス、マグナボックス、アドミラル、シルバニア、フィルコ、ウォーウィック、ウエルズガードナーの10社である。

まずはこれらのメーカーを訪問し、どのような規格の、どのような品質レベルのセラコンを、どのような部品メーカーから、どれくらいの量を、どれくらいの価格で買っているかのマーケット調査をする。次に同業のセラコンメーカー、つまりスプレーグ、セントララブ、エリー、RMCなどを訪問し、各社のカタログ、価格表などを入手して、どのような販売方法で売っているかを詳しく事前調査をし、販売先に当たることとした。しかし、アメリカのラジオ・テレビメーカーを最初に訪問した時は、ほとんどが門前払いだった。購買担当者に会えても「日本のムラタなんて聞いたこともない」「わが社の要求するコンデンサなどができると思わない」「現在のサプライヤに満足していて新規サプライヤなど考えていない」「忙しいので時間は割けない」といった具合で市場調査は進まなかった。

市場調査の突破口が開いたのは、いわばモトローラ社に対しての奇襲作戦の成功であった。購買窓口ではなかなか話が進まないとみた当社の明比が直接、ガルバン会長に電話し、趣旨を伝えたところ、購買や技術の責任者を紹介してくれた。

そのモトローラ社でセラコンの各種の資料を手に入れることができ、それから一気に市場調査が進んだ。

アメリカにセラコンを売り込むのには、アメリカ市場が要求するセラコンの実態を知らなければならない。当社のセラコンの素体の寸法はEIA規格より全般にやや小さくなっている。温度特性もEIA規格を満足させるものでなければならない。

加工のほうでは、当時国内では筆で銀電極を手塗し、5cmくらいに切ったリード線を1本ずつはんだごてで手付けしていた。しかしアメリカのスペックにはリードスペースの公差が厳しく規定してあるため、加工方式も根底から考え直す必要があった。

また価格面では、アメリカ同業の10%引きくらいの値段で売らなければ競争力はない。日本からの運賃、関税などを含めてそのくらいの値段で売るには、売価を国内販売価格の3分の1程度にしなければならなかった。

昭和35、36年当時といえばラジオブーム、白黒テレビの大量生産、それにテープレコーダの輸出が始まっていて、コンデンサはつくってもつくっても飛ぶように売れた時期であった。なぜこのような時期に、難しい規格ものを安い値段で売る必要があるのか、と社内はほとんど輸出に対しては反対だった。

その反対を押し切って、社長は輸出に力を注いだ。将来のことを考え、無理をしてでも、今から海外の販路を開拓しておく必要があるという考え方 (注12) からであった。

35年3月、ウエルズガードナー社からセラコン30万個の初受注を受けた。当社のこれが輸出第1号であった。以後、モトローラやGEなどからサンプル認定をもらい、少しずつ受注量も増え、36年には念願のRCAからも受注し、当社のセラコン輸出は順調に売上高を伸ばすことになるのである。

ニューヨークIREショー初出展とモスクワ日本産業見本市

IREというのは、Institute of Radio Engineersの頭文字を取ったもので、ラジオ工学会という学会である。それとは別にAEE (電気工学会) があるのだが、1960年 (昭和35) 1月1日をもって両学会が合併、今日のIEEE、すなわち電気電子工学会ができあがった。

その前身のIREショーだが、日本でいえばエレクトロニクスショーのようなもので毎年3月ニューヨークで開かれていた。当時の世界の電子工業の研究者や技術者が集まり、最新の発明や新学説などについての講演や、討論会があり、また各企業自慢の最新技術や製品が展示される。要するに世界の電子工業に関する最新の情報が集まる場である。

当社では昭和32年から社長や技術開発の責任者がこのIREショーを見学、最新の情報の収集につとめた。

そのIREショーに35年、当社は初めて出品をした。世界の電子機器メーカーが一堂に会して、自慢の技術、商品を展示するIREショーは自社をPRする絶好の機会でもある。とくに海外市場に販路を広げようとする企業にとってはなおさらであった。

当社の場合、すでにその前年の34年8月、アメリカ・サンフランシスコで開催されたウエスコン展示会に、正特性サーミスタやセラコン、ピエレフォークR、メカニカルフィルタなど当社の誇る技術を出展して評判がよかったということもあった。そこで翌35年のIREショーに初めて出展したのである。その時当社のほかに出展したメーカーにソニーがあったが、日本メーカーとしてはその時が戦後初めての出展だった。IREショーへの出展は43年まで続いたが、当社の名を海外に広めるうえで大いに功を奏した。

また同じ35年8月、ソ連のモスクワ日本産業見本市にも当社製品を展示したが、これはこのあとのセラミックコンデンサの製造プラント輸出につながった。

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6. 業容急伸と人事管理制度の整備

売上高、人員の急激な増加

昭和30年代に入り、白黒テレビ、トランジスタラジオという大型商品が出現・活況を呈し、セラミックコンデンサへの注文が殺到するにおよんで、当社は生産体制の増強 (注13) を重ねることで懸命にこれに対応してきた。

ちなみに、昭和30年度の売上高1億2,900万円 (村田製作所単体) で134名 (福井・大宮工場分離後の人員) だったのが、34年度が11億9,600万円、447名 (村田技研を含む)、35年度が12億4,700万円、829名、36年度は18億1,400万円、902名と売上高・人員ともに急膨張した。

賃金制度の改訂

昭和36年に入って当社はいくつかの人事管理制度に関する整備を行った。

毎年大量の人員採用が行われ、組織が急膨張したことから、いまや近代的な人事管理制度の整備が求められるに至るとともに、また36年2月に本社が長岡町に移転した翌3月には、27年の労働組合結成後、自然消滅状態になっていた労働組合が再結成、さらに4月には村田技術研究所にも労働組合が結成されるといった具合に、働く側の意識もまたよりよい労働条件を求める動きが活発化していた。

そんな時代背景のもとで、まず36年4月に実行に移された施策が賃金制度の改訂であった。それまでの日給制が日給月給制に改訂されたのである。

日給制というのは文字どおり1日の賃金はいくらと決められ、それに勤務日数をかけた額で賃金が決められる。1カ月24日働いたのと27日働いたのでは当然のことだが、給料は変わってくる。

それに対し日給月給制というのは、賃金を月単位で定めることで、その月の所定稼働日数が24日であろうと27日であろうと、1カ月いくらの職能給というように月額が固定される。もちろん欠勤があれば、その日数に応じた額が差し引かれるわけだが、日給月給制にすると、正月とか5月など休日の多い月でも安定した賃金が支払われることになるので、働く者にとっては大きな労働条件の改善だった。

「部品、材料こそ新しい装置を生み出し、機器の良否を決める。したがって部品材料メーカーの従業員は、セットメーカーの従業員より、よい待遇であるべきである」というのが、かねてからの村田昭社長の持論である。その理想に少しでも近づこうと行われたのが日給月給制の採用であった。

就業時間の短縮

36年5月には、部品メーカーのトップを切って就業時間の短縮が行われた。週45時間体制だったのが、1.5時間短縮され43.5時間体制となった。

当社では近い将来、週40時間体制への移行を考えていて、その前段階として週43.5時間体制に移行したのである。

夏期は

8時00分〜12時00分 就業時間
12時00分〜12時45分 休憩時間
12時45分〜16時00分 就業時間

冬期は

8時30分〜12時00分 就業時間
12時00分〜12時45分 休憩時間
12時45分〜16時30分 就業時間

1日7時間15分で、これまでより1日について15分、週1時間30分、月約6時間の就業時間短縮ができたことになる。

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注1) 「イノベーションのうちで最も目立ったのは、これまでみられなかった新しい商品が次々に出現したことであった。合成繊維・合成樹脂・石油化学製品・テープレコーダー・テレビ・トランジスタラジオ・電子計算機などが20年代の後半から姿をみせ、30年代にはいって急速に発展した。……

新生産方法の採用という面でも変化は大きかった。鉄鋼業は昭和29年にストリップミルを導入した。自動車も、石油精製も、化学肥料も、この頃技術を一新している」

(日本経済新聞社『昭和経済史』)

注2)これまで家電分野は、松下・三洋の総合2社と早川 (現・シャープ) ・八欧の専業2社が中心であったが、29年不況で重電部門の不振から多角化を必要とした日立・東芝など重電メーカーが家電分野に本格的に進出してきたことも、その大きな力となった。

注3)例えば、テレビの大量生産が軌道に乗るに従い、その価格は28年の18万円台から31年には8万円、34年には6万円へ値下がりし、当時の中所得層 (年収40万円程度) にとって月収の2カ月分に相当する商品となっていた。

注4)昭和32年6月、7年間の時限立法として制定、公布された。この電振法の骨子は、(1) 技術者の確保と養成、(2) 独自の国産技術の開発を推進するため大学や研究機関の体制整備、民間の技術開発に対する補助や税制上の優遇、(3) 生産・検査設備の整備、拡充、近代化のため長期・低利の資金確保と税制上の優遇、生産の専門化のため事業の共同化促進、(4) 国内需要の喚起と輸出の振興などである。

注5)この昭和30年4月に、当社はまた福井工場も独立させ、株式会社福井村田製作所とした。子会社制にして独立採算でもって運営できる体制にしようという狙いからである。以後、各地に設立した工場も、八日市工場を除いてすべて子会社方式で、独立採算制とするのである。

注6)これは阿部先生のアイデアだった。というのも、たまたま教授がアメリカの物理学会誌を読んでいたら、その中に“チタバリを使って半導体ができる”というようなことが書いてあった。それで阿部先生はそのことを村田昭社長に伝えた。

「これは将来、大きな製品になる可能性がある。村田製作所ですぐ手がけるべきだ」

阿部先生は学者でも先見性にあふれ、ユニーク性をつきつめていくタイプの学者だった。それだけにすぐピンとくるものがあったのであろう。ただちに、これが佐利第1研究室の研究テーマとなった。

まさにこの阿部先生の指摘は正しく、やがて同研究は“ポジスタ”として大きく結実する。

注7)村田昭社長もこの金食い虫にはいささか青くなり、それまで医者に止められていたこともあって、ほとんど口にしたことのなかった酒を毎晩チビリチビリと飲むようになり、挙げ句はウイスキーの角瓶を3日に1本空けるほどの大酒飲みになっていたというエピソードもある。

注8)「このセラミック半導体は、そのユニークな特性から知的材料あるいはインテリジェント・マテリアルとも呼ばれている。

それにしても、当初は電子アンカ、電子ジャーなどの発熱体として実用できる製品にするには、材料や電極や量産になお多くの工夫が必要だった。材料については、加工や使用によって劣化しない安定なものにする必要があったうえ、大量かつ安定して入手できる原料を使って再現性よく量産できるように、製造技術や設備も整えなければならなかった。

また、半導体に対する電極としては、低い抵抗接触することが必要だが、温度を高くすると溶けだしたり酸化したりして不安定だった。特に発熱体のような用途では、大電流のうえに高温に保持することが普通であるので、これに耐える電極が開発されないことには、安心して使用できる製品にはならない。

我々は、それらの課題を一つ一つ解決していったわけで、たとえ小さな部品であっても商品として完成させるためには、本体を支える周辺技術を充実させることなくしては不可能なのである」(村田昭『不思議な石ころ―私の履歴書』)

注9)福井村田製作所の武生市への工場進出は、テレビ、ラジオ需要の急増からくるセラミックコンデンサ需要の増大に対処することが第一の理由だが、それに加え前々からの武生市の熱心な工場誘致に応えるためのものであった。

昭和26年に福井県宮崎村に工場をつくって進出した時、宮崎村の米の取入高より、福井工場が従業員に支払う給料の額のほうが大きかった。それを聞いた近くの武生市長から「武生市にも工場を建てて欲しい」と前々から要請を受けていた。そんなことで工場用地7,000坪も市が有償で提供してくれたのである。

なお、昭和37年4月、福井県で植樹祭があり、昭和天皇・皇后両陛下が行幸になる際、この武生工場もご視察のコースの一つに選んでいただけることになり、日本一の花時計をつくってお迎えした。

注10)この3名は八日市工場建設の功績に対し昭和39年当社創業20周年記念式典において、社長より業務功績賞を授与された。

注11)明比が入社した時、村田昭社長は海外戦略について、次のようにその抱負を述べた。

「現在の村田製作所には関東、関西両営業所がある。外国係を第3の営業部門に成長させて欲しい。まず、アメリカ市場を最初のターゲットとする。その市場開拓のやり方は君に任せる。私としては全面的な応援を約束するので、当面の目標として5年以内に村田製作所の全売り上げの3分の1以上を輸出販売で達成すること。よほどがんばらねば目標達成は難しいと思うが、徹底チャレンジするように」

すなわち、社長は世界のムラタへの壮大な夢を、すでにこの時抱いていたのである。

注12)社長は繰り返し「海外市場開拓には時間がかかる。今歯を食いしばってがんばらねばならない。アメリカ市場向けのものが供給できれば、もちろん国内向けにも適用し、技術品質面で他社より一歩も二歩も先に進み、国内でも優位に立てる」と指示した。やがて全社員がそれに応えてがんばった。

この時期から、増産のためにも加工部門の治工具の改善や一部機械化の動きが始まった。また窯業部門も大増産とアメリカ市場にも満足されるセラミックづくりのために、最新の設備で設計された八日市工場の建設が昭和36年に始まる。この時期にセラコンの量産体制が着々と進行したのである。

注13)なお、生産体制の急ピッチの増強をめざし、機械その他諸施設の整備充実を図るため、当社は昭和30年代に入り毎年増資を実施し、それらの資金に充ててきた。31年4月には資本金を1,500万円に、32年1月2,000万円、33年2月3,000万円、34年2月6,000万円へと増資し、35年3月にはこれを1億円とした。

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