第1次オイルショックを乗り越えた昭和50年代の日本経済は通商摩擦と円高に揺れた時代だったといっても過言ではない。
石油危機にゆさぶられた日本経済ではあったが、数次にわたる不況対策によって次第に落ち着きを取り戻し、物価は安定に向かい、自動車、鉄鋼、家電を中心に輸出が急増して、国際収支は急速に回復していった。
このような洪水的な日本企業の輸出攻勢は世界各国と通商摩擦を発生させ、円高の原因ともなっていった。なかでもエレクトロニクス産業は自動車産業と並んで、その強い輸出競争力から常に通商摩擦の原因をつくってきたことは否めなかった。
カラーテレビのアメリカ向け輸出は51年に入って急増し、対米輸出を2.4倍も激増させている。それに対し現地のアメリカでは輸入制限運動が一段と強まり、51年9月にはアメリカの中小テレビメーカーと部品メーカーの労使で構成される米国カラーテレビ産業保護委員会 (COMPACT) が、米国際貿易委員会 (ITC) に対しカラーテレビの緊急輸入制限を求めて、免責条項の適用を申請した。米国際貿易委員会は52年3月、米国カラーテレビ産業保護委員会の申請を認め、緊急輸入制限のため関税の20%引き上げを米大統領に勧告することを決定するに至った。
これによって、カラーテレビ問題は一気に日米両政府間の問題に発展し、その後、両国政府間で交渉を重ね、ようやく52年5月、市場秩序維持協定 (OMA) を締結、日本が輸出自主規制することで決着した。その結果、年間の輸出を完成品で156万台、完成品からブラウン管等を除いた半製品で19万台に抑える自主規制を52年7月から3年間にわたって行うこととなった。
まさにオイルショックを乗り切るために日本企業は懸命なコスト削減につとめ、それが強い輸出競争力を生み出した。しかし、その輸出競争力がアメリカをはじめ世界各国との通商摩擦を発生させ、日本批判へとつながった。
その通商摩擦を避け、また円高に対処するために日本企業の現地生産、工場進出が盛んになっていくのも、この50年代である。
昭和50年代のエレクトロニクス産業のキーワードとなったのが、「軽薄短小」である。エレクトロニクス技術の発展にはめざましいものがあり、電子機器の多機能化、複合化、小型化が急速に進んだ時代だった。薄型ラジオの出現、電卓のカード化など、電子機器の軽薄短小化が進んだ。オイルショックによって省エネルギー技術が進み、それが技術革新を生んだのである。
一方でまた、IC (集積回路) 技術が進み集積度が向上、それが電子機器の薄型化、小型化を促進した一面もある。
この多機能化、複合化、小型化の波は、当然ながら部品業界にも押し寄せ、部品の小型化・複合化、プリント基板への自動挿入化が要求されてくるのである。
当社の場合、すでにその時代を想定して、昭和40年からセラミックコンデンサのチップ化に取り組み、チップ積層コンデンサの開発を行ってきた。さらにトリマコンデンサ、半固定可変抵抗器、コイル、セラミックフィルタ、セラミック発振子などのチップ化にも取り組んできた。
チップ化と同時に、大事なのはその実装技術で、プリント基板の中にそれらのチップ部品をどう自動的に挿入していくか、50年代はその技術に奔走した時代でもあった。
昭和54年11月、当社はカナダ・オンタリオ州に本社を置くErie Technological Products,Ltd. (通称エリー社 (注1)) を買収することで合意に達した。正式な売買契約が締結されるのは昭和55年9月だが、54年11月の時点でエリー社の発行済株式の過半数を買い取ることを決定した。
エリー社の買収は当社の国際化戦略の中で、大きなエポックを成す出来事で、この買収を機に当社の多国籍化は一気に進んだ。
エリー社はアメリカ・ペンシルベニア州エリー湖のほとりのエリー市を発祥地とし、セラミックコンデンサメーカーとしてアメリカでの主導的な役割を果たして成長してきた、50年の歴史をもつ名門電子部品メーカーである。
技術的特色としてはセラミック技術を中心に、まず抵抗器メーカーとしてスタートし、漸次その技術の応用を図って商品展開を進め、積層セラミックコンデンサ、各種可変コンデンサ、高圧電源用部品などの商品系列を増やしていった。なかでも同社の場合、軍需・宇宙通信をはじめとする産業用機器市場に強みをもち、積層セラミックコンデンサ、可変コンデンサなどは相当に高い市場占拠率を有している。
また同社は、セラミックコンデンサとインダクタを組み合わせた雑音防止用EMI除去フィルタを商品化し、市場占拠率70%以上というきわめて高い実績も誇っていた。
53年秋にそのエリー社が売りに出ているという情報を入手、当社は買収に動いた。当時、ジョージア州に設立したMurata Corporation of Americaの工場は、日本の電子部品メーカーのアメリカ市場の安売り攻勢で業績が悪化、その立て直しのために日本の同業者が手がけていない産業用電子機器分野へ進出をうかがっていた。
そんな矢先にエリー社の話が当社の情報網の中に入ってきたのである。産業用電子機器市場に実績をもつエリー社を当社グループの中に加えることができれば、Murata Corporation of Americaの立て直しにもプラスになろう。そんなことから当社は買収に動いた。
当時のエリー社はカナダのトロントに本社を置いていたが、発祥の地であるペンシルベニア州が本拠で、州内に3工場、アリゾナ州ツーソン市とそこに隣接したメキシコのフリーゾンのノガレス市にいわゆるツインプラントをもち、さらにカナダのオンタリオ州トレントンに1工場、西ドイツのニュルンベルク市とその近郊に2工場、そしてまた販売会社をフランス、イタリアにそれぞれ1社をもつ多国籍企業で、それらの株式をカナダ・エリー社が所有するという形態をとっていた。
当社はカナダ・エリー社の発行済株式の過半数を買い取ることで進めてきたが、その後、エリー社代表ウォルシュ氏が当社を訪問した際に、ウォルシュ氏から「いっそのこと、全部を買ってくれないか」ということになり、このカナダ・エリー社の株式を100%取得することにしたのである。
ただこの株式取得についてアメリカの連邦公正取引委員会 (FTC) から、アメリカでの買収後のコンデンサ占有率が高くなりすぎるということで、エリー社のセラミックコンデンサの一部の品種のコンデンサ部門切り離しの勧告を受けたが、結局、アリゾナ事業部を分離し第三者に売却することで問題を解決し、当社は正式にエリーグループを買収した。
そのエリーグループを買収したことによって、当社グループの世界における生産・販売網は一気に拡大し、多国籍企業化していくのである。
当社がアメリカのP・R・マロリー社の台湾生産法人を買収して、台湾村田股
有限公司を設立したのは昭和53年12月のことだったが、ほぼ同時に中国でのコンデンサの委託加工生産が始まった。
中国については昭和40年、中国政府からの要請で、技術交流のために村田昭社長が訪問したことがある。技術交流とはいえ当時の中国から学ぶ技術はなく、情報を提供するだけの一方通行であった。
その後、中国から技術視察団がたびたびやってきては、日本のカラーテレビの工場などを見学していった。当社にも53年に中国カラーテレビ電子技術視察団が訪れ、八日市事業所を見学して帰るなど技術交流を重ねてきていた。
このような交流の中で、54年、中国第四機械工業部 (日本の通産省に当たる) から当社に中国のセラミックコンデンサ生産技術改良の協力要請があり、代表団が来訪した。
当初、プラント輸出の形で交渉は始まった。が、代金支払いのための外貨がないことから、結局、委託加工という形で契約が結ばれることになった。
具体的には、材料および使用される生産設備・工具等はすべて当社側が供給し、さらに技術要員を現地に駐在させて技術指導する。その設備と材料を使って中国側は円板型セラミックコンデンサの生産を月3,000万個行う、というもの。契約期間は約3年間、期間終了後は貸与した設備類は中国側に譲渡される。生産は中国政府の直轄工場である北京第三無線電器材廠が担当し、56年8月から生産 (注2) が始まった。
生産されたセラミックコンデンサの一部は、Murata Company Limited (香港) が供給した設備代金として引き取り、東南アジア市場へ販売した。
エリー社の買収によってフランスとイタリアには販売拠点をもつことができたが、ECの大国としてイギリスも無視できない。そこで昭和57年6月、Murata Erie Electronics (UK) Limited (現Murata Electronics (UK) Limited (注3)) を設立した。
60年5月には、新しい成長市場として注目されている中南米市場に対して、ブラジルのサンパウロに販売会社Murata Eletronica Do Brasil Ltda.を設立、世界各地の市場に販売していく一環として、本格的なグローバル戦略を展開した。
当社が初めて転換社債を発行したのは昭和49年のことで、10億円の資金調達を行った。当初、総額15億円の発行予定であったが、折りからの不況で社債市場が不振に陥っていたこともあり、発行直前になって10億円に削減された。利率も計画当初は6.0%であったものが、8.9%と環境の変化とともに大幅なアップとなった。
転換社債とは一定の条件のもとに、将来社債権者が希望すれば、株式に転換することができる社債。株式と社債の両方の性格をもったもので、株価が値上がりすれば株式転換が進み、転換が行われなければ社債として発行者は一定の金利を支払わなければならない。
当時、当社は銀行から借入するには担保不足で限界があり、国内時価発行増資では発行株数の急増による株価値下がり圧迫がある。そこで転換社債は時価より高い水準に転換価格を設定でき、株価が上がってから徐々に転換が進むため株価を圧迫することも少なく、利率も普通社債に比べて安い。非常に有利な資金調達法だった。この転換社債の発行によって、当社は設備資金や運転資金をまかなった。
昭和51年にDRS (シンガポール預託証券) を発行して以来、積極的に海外での資金調達の道を切り拓いてきた当社だが、53年台湾での現地生産、55年エリー社の買収、後述する57年9月の電気音響への資本参加など、50年代はビッグプロジェクトが続き、相変わらず資金需要はおう盛だった。そこでその後も国内外でひきつづき積極的な資金調達を行い、財務体質の強化や合理化投資につとめた。
その後も52年3月にコンチネンタル預託証券 (CDR) の発行、53年8月にドイツマルク (約38億円) の転換社債と同時に包括預託証券 (GBC) の発行、54年7月の私募形式によるスイスフラン建て転換社債6,000万スイスフラン (約78億5,000万円)、55年10月にヨーロッパ預託証券 (EDR) の発行、56年7月にヨーロッパでの米ドル建て無担保転換社債、56年8月の国内における第2回無担保転換社債 (50億円) の発行、57年3月に株式の時価発行など、国内外で積極的に転換社債を発行し、また国内外での株式公募増資を通じ資金調達を行った。
昭和50年代に大きく進展したものの一つに管理業務に関するコンピュータ化がある。会計情報サブシステム (略称AIS) が本格的に動き出し、経理業務は大きく合理化される。
当社は昭和47年にオールムラタのトータルシステムとして“ニューMASCOT PLAN”を掲げ、管理業務のコンピュータ化に取り組んできた。その詳細については第7章に紹介したが、第1、第2、第3の3つのステップでもってニューMASCOT PLANは構築され、第1ステップとしては販売面・生産面でのコンピュータの活用が進められた。
第2ステップとしては、資材・会計・財務・人事管理がその対象業務になり、50年〜51年に完成させるというのが当初の計画であった。その計画に沿って49年8月から会計情報サブシステムの開発に着手、記帳事務・試算事務のEDP (Electronic Data Processing) 化、経理書類作成のEDP化、資金繰り計算のEDP化など、次々とシステムをつくり上げていった。
システム構築に当たって基本方針としたことは、
であることであった。
この基本方針にもとづく会計情報サブシステムの具体的展開の中心は、経営の各階層、各職能における必要な情報をタイムリーに提供できるよう、情報を全社的に、効率的に整理・ファイルする、すなわち、全社的な経営管理情報の一元化、データの質量の向上、情報処理のスピードアップ、間接人員の増員防止を図るための情報処理システムとしての「トータル情報システム」の確立にあった。
さて、海外での株式上場、資金調達が行われるようになってくれば、どうしても求められてくるのが、連結財務諸表の提出である。日本の証券取引所がそれを求めるようになるのはずっと後のことだが、米国預託証券 (ADR) を発行している企業などは、早くから米国証券取引委員会 (SEC) に子会社をも決算に含めた連結決算表を提出している。
これは第5章の株式の公開の項でも述べたことだが、当社の場合、昭和44年に東京証券取引所に株式を公開する時、連結財務諸表を提出することで認可された経緯から、以後、福井村田製作所を含めた連結決算を東京、大阪、京都の3証券取引所に提出している。京都企業の中では第1号の連結決算企業だった。
連結決算は親会社と子会社の業績実態が把握できる、いわゆるガラス張り経営として株主にとって大きな投資尺度となる。
その後、当社は急速に多国籍化を進めていくが、早くから連結財務諸表の作成を行っていたことから、経理基準の国際統一化が進めやすかったことは事実であった。
第1次オイルショック後、エレクトロニクス界を襲ったものに、前述の軽薄短小の波があった。省エネルギー対応がその技術革新のきっかけだったが、半導体技術の進歩に代表されるように、技術シーズの高度化とユーザーニーズの多様化によって、民生用電子機器の軽薄短小化は進展していった。それに伴い電子部品の小型化、チップ化が進んでいくのだが、いち早く積層セラミックコンデンサの開発を手がけていた当社は、タイミングよく激増する積層コンデンサに対する需要の波に乗ることができた。
昭和50年当時、当社の積層コンデンサの生産体制は月産1,000万個体制を敷いたばかりだったが、54年には月産5,000万個体制となり、56年には月産3億個へと引き上げられた。
当然のことだが、増産の進展とともに国内外の生産体制も強化されていった。
まず海外だが、昭和53年からMurata Electronics Singapore (Pte.) Ltd.で積層コンデンサの生産が始まった。当時、東南アジア市場では香港を中心に時計市場が広がっていた。クオーツ時計の価格競争が始まりコストダウンの必要性から、トリマコンデンサに代わって積層コンデンサが使われだしていた。そんなことから生産拠点も香港を中心とする東南アジアへと移されていった。
52年10月当時、東南アジア市場から当社が受注した積層コンデンサは240万個、総受注量の20%であった。それが53年10月には920万個となり、総受注量の30%を占めるようになった。そこで東南アジア市場で積層コンデンサの生産の必要を感じ、Murata Electronics Singapore (Pte.) Ltd.に生産体制を敷いた。設備は福井村田製作所の武生工場から運び、武生、八日市両工場から技術者を派遣して工場立ち上げを行った。54年9月から香港向けに販売が始まった。
一方、国内では56年に福井村田製作所で積層コンデンサの月産1億個の目標が達成され、武生市民ホールでその記念パーティが催された。が、到底月産1億個では急増する需要に応じきれず、その年の11月には武生工場に新しい工場が建設された。第7棟がそれで、鉄骨3階建て、総工費12億をかけた新鋭工場であった。しかしそれでも増大する需要に対応できず、58年6月島根県簸川 (ひかわ) 郡に積層コンデンサの生産工場として株式会社出雲村田製作所が設立される。操業は59年7月からであったが、生産は順調に拡大して62年には月産8億個を達成、翌63年には武生工場を上回る月産13億個という生産目標を立てた。
増大する積層コンデンサの需要に対応すべく、この時期、生産面での機械化、合理化が図られ、生産力アップの大きな武器となった。
その一つは窯業技術で、焼成率のすぐれた焼成炉を導入、これが積層コンデンサの焼成に大きな威力を発揮した。さらに自動シートパンチング機、自動カット機、自動プレス機などが次々と開発導入され、それも生産能力アップに大きく功を奏した。
代表的な受動品であるセラミックコンデンサはいち早くチップ化された電子部品だが、セットの軽薄短小化の流れの中で、抵抗器、コイルなど他の電子部品もまた次々とチップ化されていったのが、昭和50年代後半から60年代にかけてである。
コンデンサの他、抵抗や半導体、ICを含めると昭和57年には全体の中に占めるチップ部品の比率は約20%弱であった。60年にはそれが30%近くまで上がり、62年には50%近くにまで上昇するだろう、といわれたほどチップ化のスピードは早かった (注5)。
ところで、軽薄短小化の流れが部品の小型化、チップ化を促進させたことは事実だが、部品の小型化、チップ化がセットの軽薄短小の流れをつくっていくことも否定はできない。そしてまたチップ部品の出現は、新しい実装技術をつくりだしていった。これまでは部品を回路基板に組み込み電気的に接続する技術 (実装技術) といえば、リード付部品の挿入技術が主体だったが、チップ部品の登場以来、装着技術 (面実装技術) のウエイトが高まり、実装技術といえば面実装技術を指すようにもなってきている。
面実装技術とはわかりやすくいえば、プリント基板の上に積層コンデンサやチップ抵抗器、チップコイルなどを装着していく技術だが、チップ装着機 (プレーサ、マウンタともいう) の開発によって、高速・高密度装着が可能になった。
こういったチッププレーサの開発がチップ部品の発達を促し、高速、高密度の実装技術を生み出していったことは事実である。
チップ部品への需要が高まってくるにつれて、エレクトロニクス界の中で大きな論争となったのが角・丸チップ化問題だった。
角とはチップ積層セラミックコンデンサのことで、いわば当社の主力製品。丸とは円筒型チップセラミックコンデンサのことである。
軽薄短小の時代になり、国内では当社がいち早くチップ積層コンデンサを商品化して市場を独占する中で、対抗商品として同業者が円筒型チップコンデンサを開発して挑んできた。そのどちらのタイプが生き残れるか、当時のエレクトロニクス界で激しい戦いが繰り広げられた。
角型、円筒型とも、それぞれ一長一短がある。コスト的には円筒型の方が有利で、自動チップマウント機に搭載する際にも、角はテーピング、あるいはマガジン (注5) 包装してマウントしなければならないが、丸の場合はカドがないことでバラでマウントが可能。そして抵抗器も円筒型であることから、従来のマウント機にそのまま搭載でき、コスト的にも有利ということで、一時、大きくシェアを伸ばした。
ただ、角は当社以外にも供給メーカーがあり、供給の不安がなかったのに対し、丸は供給メーカーが1社しかなかった。とにかく当時のセットメーカーは角・丸どちらを採用すべきか頭を悩ました。メーカーの中には角・丸どちらでもいける設計にしているところもあった。
しかし、結果は、角のチップ積層コンデンサの大幅なコストダウンの実現により、丸の円筒型チップコンデンサの価格にも十分対応できるようになり、丸の円筒型チップコンデンサはマウントする基板の必要面積が角よりも大きいというマイナス面もあり、さらにバラでマウントできるソフトを当社が開発、マウントコストの不利を解消し、角・丸戦争に終止符をうち、現在に至った。
テレビ時代の到来とともに、VHFからUHFへの電波の高周波化の流れの中で、それに対応した製品の開発を行ってきていたが、昭和51年3月、当社は世界で初めて新薄膜圧電材料による表面波フィルタの開発に成功するに至った。50年に開発したマイクロ波用フィルタ (第7章既述) につづいて、また一つ高周波用部品を商品戦列の中に加えることができた。
これまでAM (455kHz)、FM (10.7MHz) と2つのセラミックフィルタを完成させていたことにより、ラジオ用フィルタに関しては商品群を取り揃えていた。問題はテレビだった。時代はラジオからテレビへ移り、それもカラーテレビ時代へと移ってきている。カラーテレビ用のフィルタの開発が急がれたのである。
テレビ用の音声フィルタは4.5MHzだから、それまでのセラミックフィルタ技術で間に合ったが、映像は58MHzという高い周波数であるため、それまでの技術では不可能である。高い周波数のフィルタをつくるためには、まったく新しい理論が必要であった。
昭和40年にアメリカのホワイトが、圧電体の表面に“すだれ”のような電極をこしらえることにより簡単に表面波をつくれることを発見してから、表面波フィルタの新しい理論と技術が進み、いくらでも高い周波数のフィルタがつくれることがわかった。当社の藤島啓をリーダーとする技術陣は、この新しい理論と技術を使って、テレビ用映像フィルタの開発に取り組んだ。
表面波フィルタにはまったく新しい技術を必要とした。すなわち表面波の理論、新しい圧電材料の開発、すだれ電極をつくるフォトエッチング技術などである。まず理論の勉強のためにチタン酸ジルコン酸鉛 (PZT) 基板を使って10.7MHzのFMラジオ用表面波フィルタを試作し、従来のセラミックフィルタと比較した。表面波フィルタは1方向だけの波を使うものであるから、当然ながらロスは大きくなるが、位相の直線性はきわめて良好であった。
この結果は昭和50年の音響学会で発表し、またパイオニアの高級FMチューナに採用された。このことにより村田製作所が世界で初めてラジオ用表面波フィルタの商品化に成功したわけで、アメリカの学会でも高く評価された。
しかし技術陣の目的はどこまでもテレビ用表面波フィルタの開発にあった。
当時、表面波フィルタ用の圧電材料として単結晶のほかに多結晶でできているセラミックスと薄膜の3種類があった。ゼニス社をはじめ、日本の大手メーカーもほとんどが単結晶を使って開発していた。電極の製造や周波数のバラツキを小さくするには単結晶が最善であったからである。しかし、技術陣は社是の「独自の製品」にこだわり、またテレビよりもっと高い周波数を使う移動体通信機市場への応用を考え、薄膜を使った表面波フィルタの開発に取り組んだ。
きっかけは京都大学工学部の川端昭教授と塩崎忠助教授から、新しい圧電材料として酸化亜鉛の薄膜を紹介されたことである。両先生と共同研究体制を組み、はじめは酸化亜鉛の成膜 (スパッタ) に非常な苦労をしたが、セラミック技術部門も動員して新しいターゲット材料と成膜方法を開発して、商品化に成功したのであった。
従来、テレビの映像中間周波回路には、良質な画面をつくり出すために5〜6個のLCフィルタが使用されていたが、この表面波フィルタを用いることによって、1個でLCフィルタ5〜6個分の働きをし、しかも無調整ですむ。したがって組立工数が大きく節減できることになる。
この表面波フィルタは、テレビをはじめVTRの映像回路、高級ステレオなど新しい市場をつくり出した。
昭和50年代に入ると、電子機器の発達によって電磁妨害が大きな社会問題となってきた。機器から発せられる電磁波が他の機器に影響を及ぼし、しばしばコンピュータは誤操作を起こした。そんなことから50年代後半に各国で法規制が始まろうとしていた。
そこで当社も電磁妨害、つまりノイズ対策用フィルタ開発の必要性を感じ、本格的にこれと取り組むに至った。
ただ、電子回路をノイズから守る、今でいうEMI除去フィルタ (当社商品名“エミフィル”) 的なものの開発を当社が手がけたのは早い。昭和27年、当時の警察予備隊 (現・自衛隊) がアメリカ並みの通信機が必要になり、国産化を図った。その時、それに使うコンデンサをつくれるメーカーは他になく、当社がこれを製作した。
アメリカの通信機に使われているコンデンサは、円筒型貫通コンデンサで、当時それが米エリー社のカタログにも出ていた。貫通コンデンサは一定の周波数を除去するフィルタ機能をもつコンデンサで、当社もそれを参考にし、円筒型貫通コンデンサを開発した。それがEMI除去フィルタに属する商品を手がけた最初である。
その後、日本電気がマイクロ波の通信機をつくるようになって、当社は円板型貫通コンデンサを要求されて製作し、昭和30年後半になると、テレビの不要輻射の防止用にも円筒型貫通コンデンサが使われ、その後自動車ラジオの普及とともに電源ラインやスピーカラインにも使われるようになった。
エリー社では、昭和30年頃から減衰量の周波数特性などのカタログにEMI除去フィルタが出るようになり、通信機用などに次々と開発していたようである。エリー社はEMI除去フィルタメーカーの草分けで、産業用、航空機用を数多くつくっていた。後に当社がエリー社を買収した時には、カナダの工場はEMI除去フィルタの専門工場になっていた。
貫通コンデンサをつくっていた当時、当社はまだEMI除去フィルタという意識はなく、それを意識しだしたのは、産業電子機器市場用コンデンサの工場長で技術者でもあった坂本幸夫が3端子コンデンサとビーズインダクタを考案した昭和53年頃からのことだった。
3端子コンデンサは、最初GMデルコ社のエンジンコントローラに採用された。500MHz程度までならノイズ除去効果があるはずで、各国で法規制が始まろうとしていたデジタル機器のノイズ対策をターゲットに商品化 (注6) したものだった。
当社では社内にEMI関連の計測装置を整え、EMI除去フィルタ部門を独立させ、昭和58年には京都本社に3m法の電波暗室、60年には福井村田製作所にオープンサイト、63年には横浜開発センタに10m法の大型の電波暗室、3m法の小型電波暗室を設けるなど設備を充実させ、得意先と一緒に計測し、対策手法を研究してニーズにあわせたブロックタイプのEMI除去フィルタや信号ライン用“エミフィル”などを開発し、商品群に加えた。
昭和60年頃からはSMT (表面実装) の流れに対応すべく、総合的なチップタイプの“エミフィル”シリーズの開発と商品化にいち早く取り組み、このチップタイプの“エミフィル”が平成4年には“エミフィル”全体の50%を超えるまでに成長し、昭和54年から数えて13年間で“エミフィル”の売上高は約40倍に成長した。電子機器が拡大していけばいくほど、ノイズ問題は大きくなっていく。“エミフィル”の活躍の場はますます広がっていくことが予想される。
昭和52年に当社は圧電セラミックスの応用製品であるセラミック発振子を開発した。“セラロック”はその商品名である。それは54年頃からマイクロコンピュータのクロック基準発振素子として使われるようになり、大きく成長した。
コンピュータの中にはいろいろな回路があり、それぞれが勝手なスピードで動くと信号の処理ができない。それらに動く時間基準を与えてやるのが発振子の役割である。いわば演算のメトロノームで、何十万分の一秒から何千万分の一秒まで、必要な周波数の発振子が使われる。
テレビ、エアコン、洗濯機、ミシン、電子レンジ……などにマイコンの応用が拡大しているが、これらの機器に使われているマイコンには必ずクロック基準発振素子が必要であり、いままではクリスタルやCR、LC発振器が使用されていた。
“セラロック”はこれらの発振素子と比べて小型・軽量で安価であり、広い温度範囲で発振周波数の安定度が高い、各種ICと組み合わせて発振回路の無調整化ができる、といったすぐれた特長があり、これまでの発振子にとってかわる可能性を秘めていた。事実、マイクロコンピュータのクロック基準発振素子として大量に使われるようになるのである。
ところで、実をいえばこの“セラロック”はセラミック発振子として開発されたものではなく、セラミックフィルタが偶然にセラミック発振子として使用されたことがきっかけだった。セラミックフィルタとして納入したあるユーザーからクレームが発生し、技術者が訪問してみると、発振回路に使ってみたが発振しないということだった。それ以来、このような使い方があることが分かり、当時の超音波課長の筧流石がセラミック発振子に適した特性の振動子を開発し、多くの製品の品揃えが可能になった。現在、大変な勢いで成長を続け、需要量ではセラミックフィルタを追い越す勢いである。
産業界全体に押し寄せるエレクトロニクス化の波、VTR、カラーテレビ、ラジオ付カセットなど民生用電子機器の好調などを背景に、昭和の50年代は電子部品の市場が大きく拡大した時代だった。
各工場は増産に次ぐ増産となり、製品によっては受注に生産が追いつかないという状況さえ生まれた。したがって工場の拡張、新工場の新設が相次いだのも、この時代である。
工場増設としてはまず53年10月、福井県坂井郡金津町の金津電子工業株式会社が工場増設を行った。同社は52年に操業を始め、主に貫通型セラミックコンデンサ、直付セラミックコンデンサを生産してきた。が、近年ハイブリッドIC、Rモジュールに対する需要が増大し、福井村田製作所武生工場は積層コンデンサの増産にあてる必要もあって、金津電子工業の工場を増設してハイブリッドIC、Rモジュールを移管することになったのである。
54年9月には金沢電子製作所の工場拡張を行っている。同社はテレビ用チューナの生産工場として45年5月に設立した会社であった。村田製作所が開発したテレビ用超小型電子チューナが、その頃出回り始めた携帯テレビに堅調な需要を見せ、増産に対応するために工場拡張をしたものである。
55年6月には福井村田製作所に宮崎工場が新設された。福井村田製作所は当社のセラミックコンデンサの生産基地として、昭和26年に建設されたが、これまで小曽原工場のみの生産体制であった。しかし、オイルショック後の不況を乗り切った53〜54年頃から積層セラミックコンデンサを中心に需要が急増し、受注に生産が追いつかないほどの状況となった。
そこで55年6月、同じ宮崎村に第2工場である宮崎工場の新設を決定した。総工費10億円をかけての工場建設であった。
同じセラミックコンデンサの工場である島根県大田市のイワミ電子工業も、同じ時期に8億円の工費をかけて工場増設を行ったし、福井村田製作所の武生本社、子会社のナツメ電子工業株式会社、福井村田製作所の白山工場の一部増設というように、この時期、福井村田グループでは工場増設が相次いだ。
56年10月になると石川県羽咋 (はくい) 市にある能登電子工業も本館建設を行い、生産能力を倍増させた。テレビ、VTR、ラジカセ、オーディオ機器、マイクロコンピュータ、通信機器などに幅広く使用されているセラミックフィルタ、表面波フィルタ、セラミック発振子などの圧電製品がきわめて好調で、その大幅な需要増に対応するためであった。
この時期、新しい工場も次々と建設される。
まず昭和56年5月、石川県小松市に株式会社小松村田製作所を設立した。
石川県にはこれまで能登電子工業をはじめたくさんの会社をつくってきたが、いずれの場合も熱心な工場誘致に応ずる形で工場進出をしてきた。小松村田製作所の場合も同じで、地元の素封家の格別のとりはからいで土地が確保できたという経緯がある。
当時、テレビ用チューナ、アメリカ向けCATV (ケーブルテレビ) 用コンバータの需要が急増し、今後も大幅な伸びが予想された。それまでこれらの製品は、金沢市にある金沢電子製作所で生産を担当してきたが、同社だけでは今後の需要増に対応することが難しいと判断し、小松村田製作所の設立となったのである。
なお、同製作所は最近は村田製作所のファンクショナル・デバイス事業部の主力工場の一つとして、様々な高付加価値化商品、複合機能化商品の生産を手がけている。
次いで57年9月には、富山市上野 (うわの) に約5万6,000m2 (約1万7,000坪) の土地を取得して、株式会社富山村田製作所を設立した。セラミックフィルタ、表面波フィルタなどの圧電製品の需要増に対応しようというものだった。
また、これより先57年7月には、島根県簸川 (ひかわ) 郡斐川 (ひかわ) 町に約16万5,000m2 (約5万坪) の土地を取得し、翌58年8月に株式会社出雲村田製作所を設立した。積層セラミックコンデンサ、半導体コンデンサの生産工場である。
さらに59年8月には、石川県石川郡鶴来町に約2万m2 (約6,000坪) の土地を取得して、株式会社金沢村田製作所を設立した。石川県にはすでに8つの関係会社があり、同社は9番目の工場となる。薄膜応用製品、表面波フィルタがここでは生産された。
このように53年から60年にかけては、次々と工場を増設し、また生産子会社を設立した。エレクトロニクス技術の発展により、電子機器製品は小型化・多機能化・高性能化し、これがまた新しい需要をつくり出していく。高機能化されたエレクトロニクス技術は、自動車、カメラ、工作機械など新しい分野に使われていくようになり、市場もまた大きく広がっていった。それは次に情報化社会へと結びついていく。そのような時代を背景に、電子部品もまた大きく市場を拡大した。そうした時代に対応して、当社もまた積極的に国内外に投資を展開したのである。
57年9月、当社は電気音響株式会社の55%の株式を取得し、事実上、これを傘下におさめた。
電気音響は東京大田区に本社を置く、フライバックトランス、偏向ヨークのメーカーで、その分野の技術では日本でも有数のメーカーであった。
しかし厳しい経営環境への対応に失敗して企業体質を弱め、ばく大な赤字をかかえることになり、当社への資本提携の要請となった。そこで電気音響が9月16日払い込みで、1億5,680万円の資本金を3億5,000万円に増資し、新株式を第三者割当で当社が引き受ける形で資本参加を行った。
フライバックトランスは、ブラウン管に高電圧をかけて、電子ビームを加速させ、画面を発光させる働きをもつ。またチューナなど各部回路へのパワー供給源でもあり、樹脂注型されたコイル部分とU字型フェライトコアから構成されている。
一方の偏向ヨークは、DYまたはDeflection Yorkと呼ばれ、ブラウン管の電子ビームを走査し、画像を構成させる働きをする。水平および垂直方向走査用の2種類のコイルとフェライトコアから構成され、ブラウン管背部のネックと呼ばれる部位に装置される。テレビなどの画質を大きく左右する重要部品である。
当社が電気音響に資本参加をしたのは、単機能部品メーカーから機能部品メーカーへの志向である。
セットメーカーが年々システム志向を強めていく中で、部品メーカーとして生き残っていくためには、単機能部品メーカーから機能部品メーカーへと脱皮していかなければならない。そのためにも新しい材料や要素技術を社内に欲しいというのが当社の考え方であった。
昭和58年5月、当社は大きな組織改定を行った。当社グループ全体を含んだ組織改定で、47年の5本部1支社制の採用以来の大改定であった。
今回の組織改編の狙いは、オールムラタスケールでの仕事の見直しと効率化を図り、激化する同業他社との競争に勝ち残り、さらに大きな発展をめざすというところにあった。すなわち、その狙いは大きく見て次の5つであった。
拡大しつつある生産販売規模に対して、効率的かつ柔軟に対応できる組織にする。また品種の拡大やエリー社、電気音響などを傘下に入れることによる生産販売体制の多様化にも十分対応する組織にする。
商品事業部、販売部門、開発部門ならびに本社スタッフ部門の各機能を強化するとともに、効率的な組織運営を図ることによって、間接人員の削減をめざす。
拡大し、多様化した海外の生産販売管理体制を整備する中で、充実した海外戦略を打ち出す。
新製品の開発、既存商品の改良をタイムリーに行い、スピーディな生産と即納体制の強化を図る。利益責任追求体制を強化する。
オールムラタスケールでの組織改革および人員再配置を行うことにより、組織の活性化と人材の育成を図る。
かくして、このたびのオールムラタ組織改編のポイントは、
・従来の (通称) 商品事業部を正式の商品事業部とし、各商品事業部に所属する国内関係会社または生産部門の長が、直接指揮命令を受ける組織とし、オールムラタの組織を一元化したこと。
・商品事業部を商品系列単位で、かつ一定規模を基準として整理統合し、大規模少数化したこと。
・本社機構の下に、ラインとして商品事業部と販売部門および開発部門を設け、社長の指揮命令下に置いたこと。
本社スタッフは、社長を補佐し、上記ラインを職能的に指揮統制する。
などにあった。
さらに昭和60年7月、オールムラタ組織を改定した。2年前に事業部制を中心にオールムラタの一元化組織が発足した際、早晩、組織の一部手直しが予想されたが、今回それを実行に移した。
今回の組織改編のポイントは2つあり、一つは事業部の一部改編、一つは営業本部・海外本部関係の改編である。
まず前者の事業部関係だが、コンデンサ事業部のコンデンサ、積層コンデンサグループの2グループ制を廃止し、高圧コンデンサ部を新設した。複合事業部では新たにEMIグループを新設し、また可変商品事業部を新たに設けた。また複合事業部の中にあった抵抗器グループが、事業部に独立した。
この2年間で大きく育った商品、あるいは育ちつつある商品を事業部レベルに昇格させ、さらなる育成を図っていこうという考えだったわけである。
後者の営業本部・海外本部関係では、東京支社、西日本営業部など国内営業部門を統合して営業本部とし、本拠を東京に置いた。また海外営業部および海外支援部から編成される海外本部を新たに設置した。
今回の組織改編のポイントは大きく見て2点に絞られる。1つは商品の成長を促進するため、事業部の分割と再編を行ったこと。2つ目は、販売力の強化をめざし、国内営業、海外関係部門において、組織の一元化と合理化を図り、人材配置を強化したことである。
エレクトロニクス革命が叫ばれ、産業界全体に電子化の波が押し寄せてきている。当社から見れば大きなビジネスチャンスであるわけだが、他方、ビジネスチャンスをめぐって同業他社との厳しい競争が展開されていることも事実。競争に勝ち残りさらに大きな発展をめざすためには、従来以上の効率的な組織運用をめざす必要があり、それが58年、そして今回の組織改定へとつながってきたのである。
前述のように第2次オイルショックを克服した昭和55年頃からエレクトロニクス界は、電子化の波に乗った形で成長発展を遂げるが、そこで必要になってくるのが人材の確保と育成である。
昭和50年、トランシーバブームで、技術系を中心とした大学卒人材の不足を痛感し、人材の大量採用を行ったが、それでも16名の採用に過ぎなかった。
当時は大卒人材の採用も関西が中心で、募集を行うにしても東日本方面ではせいぜい静岡大学ぐらいまでであった。
しかし50年半ば頃から人材不足がますます深刻化し、当社も積極的な採用を始めた。
昭和51年以降の新規学卒採用状況は次のとおりである。
| 51年 | 大卒17名 | 高専卒2名 | 57年 | 大卒99名 | 高専卒13名 |
|---|---|---|---|---|---|
| 52年 | 〃 33名 | 〃 6名 | 58年 | 〃 99名 | 〃 13名 |
| 53年 | 〃 33名 | 〃 2名 | 59年 | 〃172名 | 〃 20名 |
| 54年 | 〃 45名 | 〃 1名 | 60年 | 〃248名 | 〃 25名 |
| 55年 | 〃 55名 | 〃 5名 | 61年 | 〃270名 | 〃 23名 |
| 56年 | 〃 76名 | 〃 5名 | 62年 | 〃287名 | 〃 21名 |
そしてまた、人材確保のために58年からは、採用プロジェクトを発足させた。それは人事部外に広く協力を要請し、管理職を含む約50名で構成した。メンバーは出身大学への訪問、資料請求してきた学生の勧誘を担当する、というプロジェクトである。従前から出身大学に向けてOBとして個別に勧誘活動を行っていたが、それを組織化したのが採用プロジェクトであった。
このプロジェクトはその後、年々充実を図り、62年には110余名もの人たちで構成され、着実な実績をあげた。
人材の大量採用に伴って必要になってくるのが、社内教育体制の整備である。当社の場合、昭和49年11月に人事部の中に教育課を新設し、体系的な社内教育に取り組み始めた。
この年の8月に職能資格制度の発足が決定したこともあって、まずは50年2月から職能資格制度にもとづく講習会を開いた。社内講師を中心に12月までに長岡地区で33講座、八日市地区で7講座を開催、合計805名が参加し、310名が職能資格の認定を受けた。
51年5月からは管理職候補研修会が始まる。管理職になってから教育するのではなく、管理職になる前に教育し、これをすませた人を選抜して管理職に任命することにした。
また51年5月以降、それまで散発的であった階層別教育が、毎月1つは行うようにし、定期化した。会場も外部に移し、2泊3日のコースで行い、講師はすべて社内講師であった。そしてこれは当社の社内教育の大きな柱となった。
さらに52年6月からは、日本生産性本部研修をスタートさせた。課長研修から始まり、部長、次長、係長などへ対象を拡げていったが、超一級の講師陣による講話や夜を徹してのグループ討議と発表会、決意表明などに大いに啓発され、大変好評であった。
この生産性本部研修はその後、福井村田製作所グループ、能登電子工業グループの課長クラスにも実施し、オールムラタに拡げた。
54年10月には創造性開発の代表的手法であるKJ法の研修会を導入し、また管理職を対象にマネジメント・エコノミーゲームも導入した。
55年10月からは自己啓発を勧める意味で、通信教育を全社に導入した。初年度40講座からスタート。1年間で550名の受講者があり、110名が修了した。通信教育制度の導入は、当社の社内教育制度に新しい歴史の一ページを切り拓いたものといえ、導入以後、自ら学ぶという姿勢が社員の中に培われていった。
かくて60年7月、これまでの社内教育の懸命な取り組みから導かれたエキスを「教育訓練基本方針」として掲げるとともに、これを受けて、社員教育訓練を効果的に実施するため、その基本事項について定めた「教育訓練規定」を明文化した。
すべての社員は、仕事のプロであらねばならない。
そのために自ら自分自身の能力開発と人格形成に最善の努力をはらう必要がある。
現在の役割をやりとげる能力を備えるだけでなく将来の役割を先取りする実力養成と社会に通ずる人格形成に努力しなければならない。
部下の指導・育成は上司の重要な職責である。
部下をもつすべての上司は、この職責の重要性を強く自覚し、愛情と厳しさをもってOJTを実践し、次代を背負う後継者の育成につとめなければならない。
教育訓練は、ねらいを明確にして継続的・重点的に実践する。
すべての教育訓練は、対象者のニーズを的確にとらえ優先順位を定めて長期計画のもと継続的・重点的に実施しなければならない。さらに、その結果を確認・評価し、次のステップにつなげるものでなければならない。
教育訓練は、人事管理の一環として行うものである。
教育訓練は、人事管理の一環として経営組織が必要とする有能な社員を確保できるよう、人事管理諸制度 (職級制度、昇進昇格、ローテーション、職能資格、人事考課等) との密接な関連のもとに行う。
昭和54年10月、当社は創業35周年を迎えた。
この35周年を機に社風刷新の声が高まり、そこで思い切ってCI運動を導入することになった。
円の為替レートが51年秋からじりじりと高くなり、日本の輸出貿易に対する批判は、アメリカだけでなくヨーロッパにおいても強まる一方であった。そんな危機感が社風刷新の声となっていったのであった。
ただ当時はCIという言葉もほとんど一般的には流布されておらず、したがって当社の場合もCIという言葉は使っていない。しかし、コーポレートカラーの制定、社旗・社歌の制定、そして社是の見直しとその実践運動は、まさにCI運動そのものであったといえる。
まず第一のコーポレートカラーだが、燃えるような赤であるサンカラーとスカイブルーの2色をコーポレートカラーに制定した。
サンカラーは“燃える集団ムラタ”を象徴し、未来への希望、創造する熱意、愛情、友情、永遠の若さと新鮮なこころを表現する。
スカイブルーは、自己の探究と技術の練磨、誠実、信頼と宇宙への広がりを表現し、この2つの色の調和で新しいムラタのイメージをつくるのである。
社旗・社歌については、昭和34年の創業15周年に一度制定している。そういった意味では、今回改訂したというのが正しい表現といえよう。社歌についてはフォーマルソングの部、コミカルソングの部の2つに分けて、歌詞を社内募集した。フォーマルソングについては『希望に燃えて』が最優秀賞に選ばれ、コミックソングは『ムラタマン小唄』がコミカル大賞を獲得した。
昭和54年、35周年を機に、当社は社是の一部を改訂した。それまでの社是は「技術を練磨し 科学的管理を実践し 独自の製品を供給して 文化の発展に寄与することにより ……」となっていたが、「文化の発展に貢献し 信用の蓄積につとめ」と新しく語句をつけ加えた。
“信用の蓄積”という言葉をつけ加えたことについて、社長の村田昭はこう語っている。
「皆さんが約束を守れなかったということは会社の信用をおとすとともに、皆さんの信用をおとしていることです。信用をおとすということは、社会からつまはじきされるということです。(中略)
信用を積むことはむずかしいことではありません。まず、まちがいなく仕事をすることです。まちがいなく仕事をするためには、そのことを理解し、限度を知ることです。限度を知るためには、科学的に分析して、実施にあたって管理をすることです。
一度おとした信用は容易にもどりません。信用には歴史が必要なのです。すなわち、時間とつみ重ねが必要です。(中略)
信用をおもんじると、ややもすると保守的になりやすいものです。当社の信用は『技術がすぐれていて、独自性のある商品を生みだす』『他に先んじて新しい商品をだす』そして『品質は信頼できる』あるいは『他に先がけて新しい行動をする』という伝統にもとづく信用であります。信用をおもんじるということは、保守的になるということでないことを十分認識して、常に進取の行動のなかに信用を確保していただきたい。(後略)」(『ムラタニュース』昭和54年11月、第359号から)
10月18日、長岡事業所、八日市事業所両事業所において、記念式典を催したが、新しくなった社是を全員で唱和しながら、35周年を祝った。
そしてその社是の改訂を機に、社是実践運動を展開していった。
全従業員が共通理念である社是の実践について総点検を行い、その中で社是の理解を深め行動を起こしていくことが狙いである。具体的には各職場単位で討議を行い、問題点を洗い出し、その解決の方法を見つけるというやり方で、実践運動は展開された。
またこれまで社是については、子会社は子会社独自の社是を策定し、子会社とは一定の距離を置いて運用されてきたが、35周年を機に子会社を含む社是実践運動を展開する中で、社是が子会社へ導入されるようになった。
労使関係の不安定は当社の長年の悩みのタネであった。昭和40年以後、春闘時期になると毎年のように組合のストライキが起こり、当社としては得意先や地域の人々に迷惑をかける。なんとかストライキの起こらない友好的な労使関係が築けないものかと心を痛めてきた。
当社はいまや世界のムラタである。ヨーロッパやシンガポールの証券取引所に株式を上場、世界の株主の負託にこたえなくてはならない社会的責任を負っている。それだけに安定的な労使関係を築き上げたかった。
そのきざしが見えてきたのは昭和50年の春闘であった。前にも述べたが前年の秋から12月にかけて当社は大争議を経験した。その争議以後、組合側にも反省と厭 (えん) 戦ムードが急速に高まってきた。
当社の村田昭社長は、部品メーカーはセットメーカーの下請け的な存在だから、給料はセットメーカーより低くて当たり前という当時の風潮に対して、「よい材料・部品があって、はじめてよいセットができる。少なくとも部品メーカーもセットメーカー並みの給料にすべきである」との持論の持ち主で、たえず大手セットメーカー並みの賃上げに心を砕いてきた。
前章で述べた昭和49年の年末にやっと解決した争議直後の50年の年明けの方針発表会で、社長は「不況で経営は大変苦しいが、春闘では大手電機メーカー並みの賃上げを約束する。したがってストはやめて欲しい」と言明、それを受けて人事部は、社長の方針に沿ってねばり強く組合と話し合いした結果、組合もそれを了承して、初めてストのない春闘が実現した。それが一つの契機となって、労使関係に変化のきざしが見えだした。
昭和51年9月、労働組合は第14回定期大会で、総評化学同盟からの脱退を決議した。産業別・業種別に結集すべく、全日本電機機器労働組合連合会 (電機労連) への加盟を志向、53年2月に正式に加盟を決定した。
組合が上部団体総評化学同盟から脱退してまもなくの52年3月、会社は安定的な労使関係をつくるべく、労使双方の代表者により経営問題の話し合い機関である労使協議会の設置を提案する。
組合も労使協議会の設置について、何度も何度も組合内で討議を行い、やっと57年に設置を了承、57年5月31日に労使協議会に関する協定書が会社と組合の間で取り交わされた。以来、労使双方にかかわる問題については、この労使協議会で協議され、決定される仕組みができ上がっていった。50年春以後、一度もストがなく、互いに相手を尊重し合う労使関係が築き上げられ、その後の当社の成長発展の大きな原動力となった。
注1)当社とエリー社との関係は古く、古くは創業者の村田昭が創業時エリー社を目標に置いて、セラミックコンデンサの開発に心血を注いできたという結びつきがある。
京大の田中先生からエリー社のカタログを取り寄せてもらい、そのカタログを片手に村田昭はコンデンサを焼いた。エリー社は目標でもあり憧れでもあり師匠でもあった。
村田昭が海外へ出るようになった時、真っ先に訪ねた同業者の一つがエリー社であった。昭和34年から交流が始まった。互いに工場を見せ合い研さんに努めた。当社が日本でもいち早く積層セラミックコンデンサの開発に着手したのも、エリー社の工場見学がきっかけだった。
注2)日本から派遣された4名の技術指導要員は、国民性の違い、労働観の違い、慣習の違いなどから大変な苦労をしたが、投資はすべて回収、設置したプラントも生産性が高く、品質も非常にすぐれているということで、工場は政府から表彰された。
注3)イギリスだけは現地へ進出した日本の得意先からの要請で日本人のセールスマンもいるが、原則としては現地主義、現地の経営はできるだけ現地人にまかせる、それが当社のやり方である。したがって会議は共通語として英語を使うようにしている。アメリカ・ジョージアでの現地生産工場では、この徹底した日本語追放が成功要因の一つとなったといっても過言ではない。
注4)昭和61年9月号の『ファクトリー・オートメーション』によれば、国内における受動部品全体のチップ化率は、昭和60年で約25%程度だが、今後チップ化率は着実に進み、63年〜64年にはチップ部品はリード付部品を上回り、65年にはチップ化率は60%前後に達するだろうと予測している。
またセラミックコンデンサだけを取り出してみると、そのチップ化率は昭和60年で約40.0%、65年には65.0%に達すると予想していた。とにかく急速な勢いで電子部品のチップ化は進んでいったのである。
注5)テーピングもマガジンも部品の包装形態で、1本の紙テープに部品を並べて固定したものがテーピング方式。マガジンと呼ばれる細長いプラスチックのケース1列に収納する包装形態のものがマガジン方式。
注6)ところが3端子コンデンサは上手に使わないと、本来の特性が出ない。いざ得意先にサンプルを出してノイズ対策に使ってもらうと、ノイズが除去されないという苦情が出始めた。
そこで設計・試作中のセットを借り受けてノイズ対策を始めた。次にこのノイズ対策などで得た手法を広げるために、セミナーを行い、雑誌や新聞などに寄稿して好評を博した。
村田昭社長、藍綬褒章を受く
昭和55年秋の叙勲褒章に際し、当社社長村田昭が藍綬褒章の栄誉にかがやいた。
「多年電子機器部品製造業に携るとともに、関係団体の要職にあって業界の指導と技術向上につとめ、斯界の振興・発展に顕著な功績があった」ということで、国家がその功績をたたえ、与えられたものであった。
なお、村田社長は社団法人日本電子工業振興協会、日本電子機械工業会、社団法人日本電子部品信頼性センター、社団法人関西電子工業振興センター、電子材料工業会など多くの業界団体の役員を歴任してきた。
沿革・ロゴ