昭和60年 (1985) は、日本経済にとって大きな分岐点であった。
その年の9月22日、ニューヨークのホテル「ザ・プラザ」に日米英独仏5ヵ国の蔵相・中央銀行総裁が集まり、緊急会議が催された。いわゆる“G5”である。翌年からカナダとイタリアが加わって“G7”となった。
G5で論議されたのは、いうまでもなく各国の通貨問題である。当時問題になっていた過度のドル高が大きな議論の対象となり、その是正と各国間の多角的な為替レートの調整が図られることになった。それがプラザ合意といわれるもので、それまで超ドル高、超円安だった為替レートの調整 (注1) が必要とされたのである。
プラザ合意にもとづき、日米欧通貨当局が協調介入を実施した結果、円の対ドル相場は合意前の1ドル=238円から一挙に225円へと上昇し、翌61年1月には、180円台、62年12月には150円台にまで上昇した。急激な円高に対して、産業界から悲鳴にも似た声が上がり始めたのもその頃のことだった。
しかし、今回の昭和60年から始まった円高は円の切り上げ幅が大幅かつ長期にわたり、昭和46年、53年の過去2度の円高とは大きく違っていた。当然、企業は前回、前々回とは違った形での円高対応を迫られた。かくて展開されたのがリストラクチャリングであり、生産拠点の海外へのシフトである。
この円高によって、日本企業の経営戦略は大きく変わった。円高長期化の現実を踏まえた、積極的なリストラクチャリングに乗り出したのである。従来どおりのコスト削減、経営合理化に加えて、海外現地生産の拡大、内需への転換、新規分野への進出、資材や部品の海外からの調達、などに意欲を燃やした。
中でも活発化したのは、直接投資による海外現地生産の動きであった。代表的なのは自動車産業であるが、この時期、中小・中堅企業の海外現地生産も盛んに展開 (注2) されるに至った。
電子機器産業の場合は、先述のごとく、早くからアジア諸国、最近では北米にも進出し現地生産を行ってきているが、プラザ合意後、さらに加速がかかった。
日本電子機械工業会の統計によれば、カラーテレビの現地生産台数は、昭和60年には1,136万台で前年比105.7%であるが、61年には1,235万台、62年には1,358万台、63年には1,593万台、64年には1,699万台と徐々に増加の傾向を見せている。
電子機器業界の花形商品だったVTR機器も、58年以降、アジア、ヨーロッパでの現地生産が拡大し、59年当時82.3万台だったものが、60年には一挙に250.7%アップの206万台に増え、62年には382万台、63年には530万台へと増大した。その他テープレコーダ、ステレオなど多くの電子機器が海外生産の比重を高めていった。
電子工業はいま新しい時代に突入しつつある。昭和62年3月に日本電子機械工業会が「民生用電子機器国内市場の中・長期展望」として、平成7年までの電子機器市場における新製品の動向を予想しているが、それによれば平成7年の新製品市場全体は、昭和61年国内既存商品AV市場の約1.8倍に当たる5兆0,387億円 (注3) に達する。
その内訳を展望すると、「テレビ系機器」、「VTR、VD系機器」、「オーディオ系機器」、「カメラ系機器」などが、今後10年間において中心的存在となり、一方では、「情報処理系機器」、「通信系機器」、「HA系 (注4) 機器」といった現在ではまだ明確な市場を形成していない機器カテゴリーが浮上し、3カテゴリーで平成7年の時点では全体の23.4%に当たる1兆1,800億円の市場を形成するとしている。
機器カテゴリー別には、「テレビ系機器」の比重が平成3年以降とくに高まっていくと予想し、これにビジュアル系機器に属する「VTR、VD系機器」、「カメラ系機器」を加えると、平成7年の時点では全体の55.9%を占めると見ている。
電子工業のトレンドは視聴覚機器 (AV) と情報機器が一体化した「マルチメディア時代」へと進展しつつある。パソコンの画面でテレビやビデオを楽しむだけでなく、日本国内は勿論、世界各地での情報、データなどがユーザーの希望に合わせ、相互に意思を伝えることができるようになろうとしている。
円高以後、電子工業にも大きな市場の変化が見られた。民生用電子機器市場に対し、産業用電子機器市場の規模が急速に拡大してきたことである。昭和55年当時の生産額は、民生用電子機器が2兆9,321億円、産業用電子機器が3兆3,960億円で、市場規模としてあまり差がなかった。ところが57年になると、産業用は4兆3,021億円と民生用の3兆5,064億円を大きく上回り、60年以降になると、この差は顕著になってくる。62年は産業用電子機器の生産額が民生用電子機器の生産額の約2倍、平成2年には2.6倍近い11兆3,416億円という巨大な市場へと成長をしていく。
その背景には、民生用電子機器の生産が海外へ移ったこともあるが、電子計算機、事務機、通信機器などの生産が急速に拡大した結果である。また、電子産業の市場の広がりが大きく、従来の電子産業の領域だけでなく、さらにFA分野でも大きく展開してきたことも、産業用電子機器市場を伸展させる大きな要素となった。
当社も市場の動向に合わせて、早急に産業用電子機器市場向けの商品開発や生産能力の拡大に取り組む必要があった。
平成に入って急速に拡大してきた市場に自動車電話、携帯電話、無線呼び出し、コードレス電話などの移動体通信市場がある。
昭和63年における通信機器の生産は2兆5,974億円、前年比113.1%の伸びだが、うち無線通信機器の生産は8,259億円で、前年比111.8%の伸びであった。これは防衛庁等官公庁需要が堅調であったのに加え、電気通信事業の自由化に伴って、第1種電気通信事業者の新規参入が増加し、市場が活性化したことによる。
第1種電気通信事業者のうち、移動体通信機器関連市場が注目されている。無線呼び出しサービスは昭和63年3月末現在で18社が営業を開始しており、自動車電話サービスは64年までに2社が営業を開始する予定になっていた。
平成2年になると通信機器の生産は、2兆9,623億円に拡大、前年比112.3%と2けたの伸びを示した。この伸びの背景となったのは、自動車電話、携帯電話を中心とした移動体通信機器需要が通信インフラ整備と需要層の拡大により内外で好調に推移したこと、NTTの建設投資額が前年比101.2%と3年ぶりに前年比プラスに転じたこと、などの要因が大きい。
なかでも移動体通信機器需要の増大には目を見張るものがあり、自動車電話、携帯電話など関連端末の生産は、数量ベースで見ると全体で1,119万台に達し、前年比160.9%という高い伸びであった。製品ラインアップの充実などに伴って需要が急速に拡大 (注5) しているのである。
平成2年における世界の自動車電話・携帯電話の加入数は、1,055万台と1,000万台を突破した。国別加入数の構成比は、アメリカ53%、ヨーロッパ31%、日本8%、その他8%とアメリカが過半数を占めている。日本の場合まだまだ伸びる余地が大きいということである。事実、平成6年に自動車電話、携帯電話端末が市場開放され、携帯電話需要は急速に拡大した。こうした移動体通信の発展が、当社の現在の好調につながっているのだが、今後もさらに市場の拡大が予想される。
また、衛星放送市場の拡大も今後の大きな特色であろう。
昭和63年2月に通信衛星「さくら3号a」、同年9月に「さくら3号b」が打ち上げられて、通信サービス地域はほぼ日本全土に拡大され、日本も本格的な宇宙通信時代に入ったといえる。
現在の電子部品の大きな流れの一つが、あらゆる部品に対するさらなるチップ化であった。電子機器として省資源化によるコストダウン、部品のリード線部分の浮遊容量による回路の不安定の防止、そのための部品のリードレス化と小型化が求められる。それに伴って部品もまた表面実装部品 (SMD (注6)) が要求されるようになった。
リード線のないチップ部品で、基板表面に直接搭載できるSMDは、電子機器の小型化や軽量化に伴う高密度実装ニーズや自動装着機による工程の自動化ニーズに応じて、その需要はますます拡大の一途をたどっている。
昭和50年代初めにセラミックコンデンサを中心にチップタイプの開発と増産につとめてきたが、さらに昭和60年以降、当社はその他のチップタイプ部品の開発に力を注いだ。チップタイプセラミック発振子、SMDタイプ半固定可変抵抗器、チップタイプポテンショメータ、SMDタイプEMI除去フィルタ、チップタイプEMI除去フィルタなどを開発し、量産技術を確立していった。それはまた新たなる衛星放送市場、移動体通信市場の出現に対応したものでもあった。
高周波化も通信市場の大きな流れであるが、その流れに対応すべく次々と新しい商品を世に送り出してきたのも、近年の当社の大きな動きだった。世界で初めての4GHz、20GHz、さらに50GHzと誘電体共振器 (レゾミックス) を商品化し、世界最小の高周波同軸コネクタ、自動車・携帯電話用LCフィルタ、携帯電話用アイソレータ、通信衛星コンバータ用SHF帯発振器、移動体通信用表面波フィルタなどユニークな商品を開発してきた。通信の分野では、急増する情報量への対応から、使用される周波数帯が高周波帯へと移行してきている。これに伴い高周波通信機器に対する需要が高まってきている現状にあるが、当社はいち早くそれに対応してきたのである。
平成2年5月、当社はエレクトロニック羅針盤“ジャイロスター”を発表した。振動ジャイロは、これを搭載した機器の方位や動きを知る装置である。すなわち、運動している物体に回転角速度を加えると、その運動の運動量と回転の軸の両者に直角な方向に力 (コリオリ力) が生ずるという力学現象を応用したもので、これによって自動車、船舶、航空機などの移動体自身が出発点から現在地までの動きを把握することのできる装置である。
圧電振動ジャイロは、圧電セラミックスをセンサとして応用した振動ジャイロの基本原理をベースに、独自の振動子形状と回路方式によって従来のものよりも高精度で信頼性が高く、量産性に富んだ独自のセンサ部を設計したことで、まったく新しい次世代版エレクトロニック羅針盤の実用化へ大きく道を開いた
ナビゲーションシステムとしては、古くはジャイロコンパスによるものがあるが、1960年代から、アメリカのNNSS (Navy Navigation Satelite System) をはじめ人工衛星や地上局、地磁気センサ、ジャイロコンパスなどを応用して、航空機、自動車、船舶などの移動体の位置を測定するシステムの研究、実用化が進められてきた。とくに現在、日米欧において道路の利用状況などの情報化によって、安全性、効率性、経済性を追求した新しい自動車交通システムの開発が促進されているとともに、各自動車メーカーでも独自に位置測定装置の実用化が検討されている。
例えば、NNSSを発展させたアメリカのGPS、ECでのDRIVE計画、日本では建設省のRACS (注7)、警察庁のAMTICS (注8) などがある。
その中で圧電ジャイロスコープを応用したナビゲーションシステムは、GPSのようにビルの密集地域やトンネル内で使用できなくなることや、地磁気センサシステムのように周囲の鉄骨や踏切などでの磁気の乱れの影響を受けるなどの欠点のないものとして、注目されていたが、要求される加工精度が非常に高く、量産化のために多くの課題が残っていた。
当社は総合電子部品メーカーとして、エレクトロニックセラミックスをベースに開発した数多くの高性能センサ商品群によって、カーエレクトロニクスの発展を促進しており、今回、それらの課題を解決するため、技術的に優位性の高い圧電セラミックスを利用した角速度センサとして、超高精度圧電振動ジャイロ“ジャイロスター”を開発したのである。
この“ジャイロスター”は、開発責任者の中村武のアイデアで今まで複雑であった構造を“三角柱”というシンプルな構造にしたもので、量産化がいちじるしく向上するとともに、感度が100倍にまで高められ、圧電振動ジャイロスコープを応用したナビゲーションシステムの普及に大きな可能性を示すものであった。
さらにこの“ジャイロスター”は、ビデオカメラの手ぶれ防止、自動車、走行型ロボット (注9) などの姿勢制御などにも応用ができ、ビデオカメラには欠くことのできない部品となっている。
この圧電振動ジャイロは、平成3年の日経産業新聞の年間優秀製品賞最優秀賞を受賞した。
従来のエレクトロニクスは、半導体やコンピュータなどにより、距離や時間、速度などを精度よく測ることは簡単にできるが、方位や慣性を精度よく測ることはできなかった。しかしこの“ジャイロスター”の発明により、人間や自動車など動くものの慣性を簡単に精度よく測ることができるので、21世紀に向けて、まったく新しいエレクトロニクスの市場が創出されることになろう。
プラザ合意後の円高は、当然のことだが、当社の海外政策に大きな変化を与えた。
当社の海外政策の基本方針は、市場のあるところで生産することにあり、単に安い労働力を求めて海外に工場をつくるといった政策は採ってこなかった。しかし、セットメーカーの多くがコスト高の日本を避け、東南アジア諸国へと盛んに生産をシフトしていく状況下にあって、当社だけがいつまでも国内に止まっていては、市場を失うことになる。そこで新しい商品群を生み出して国内の空洞化を防止しながら、一方では、海外現地生産化を積極的に促進させていった。
昭和61年4月、当社は100%出資のブラジル現地法人Murata Amazonia Industria E Comercio Ltda.を設立、翌62年8月に工場を完成し、正特性サーミスタなどの製造に乗り出した。
ブラジルのアマゾン州マナウス自由区では、企業が事業を行うことに対して、種々の恩典を与えているため、各国エレクトロニクスメーカーの電子機器生産マナウス自由区に集中 (注10) は強まる傾向にあった。しかし、高品質の電子機器を生産するには、高品質の電子部品が必要である。現地でも各種電子部品は生産されてはいたが、数量でも品質レベルでも要求を十分満たすには至っていない。電子部品の需要は年々増加しつつあるのに、ブラジル政府の強力な輸入規制下にあり、高品質な電子部品の輸入はきわめて困難な状況にあった。そのためブラジル政府や現地セットメーカーから、電子部品の現地生産の拡大が強く要望されていたのである。
次いで62年7月、当社はメキシコに工場進出をした。
アメリカ・テキサス州にMurata Erie Texas, Inc.を6月22日に設立し、同時に同法人の100%子会社としてメキシコ・チワワ州シウダドファレス市にメキシコ現地法人Murata Electronika Mexicana,S.A.de C.V.を7月16日付けで設立、工場用地も確保した。
メキシコには「マキラドーラ制度 (注11)」という税制面での優遇措置があり、こうしたことから欧米および日本のセットメーカーの多くがアメリカ国境沿いに工場を建設、カラーテレビを生産して、アメリカへ供給をしている。折りしも北米カラーテレビ市場はカラーテレビの大型化などの進展によって活発化の傾向にあり、当社のメキシコへの工場進出となったのである。
翌63年9月には、8番目の海外生産拠点として、タイのチェンマイ市近郊にある北部工業団地にMurata Electronics (Thailand), Ltd.を設立、工場進出を図った。
近年、タイをはじめ東南アジア地域での日系、欧米系のセットメーカーの電子機器の生産が急速に拡大したのに伴い、電子部品の需要が大幅に増加したため、これに対応すべく進出したのである。北部工業団地への進出は日系企業としては初めてのことであった。
こうしてブラジル、メキシコ、タイ、と積極的な現地生産体制の拡大を図ってきた当社は、平成元年11月、さらにイギリスに工場進出をした。当社グループとしては9番目の海外生産子会社Murata Manufacturing (UK) Limitedであった。
ヨーロッパでは、産業用電子機器を中心とした現地セットメーカーや米系企業の好調に加え、日系企業の現地生産の動きが本格化し、電子機器に対する需要が増えてきていた。1992年 (平成4) のEC統合により巨大市場が形成されようとする中で、EC内で電子部品を生産、供給するニーズもまた高まっていた。
このようなヨーロッパ市場の動向に対応して、当社は西ドイツに次いでヨーロッパ2ヵ所目の生産拠点を設けて、イギリスおよびヨーロッパ各国へ円滑な部品の供給を図ろうとしたのであった。新工場は、イギリス南西に位置するプリマス市のテキサス・インストルメンツ社が使用していた元工場を現地市当局から買い取って建設した。
続いて平成5年5月には当社10番目の海外生産拠点のMurata Electronics (Malaysia) Sdn.Bhd.を設立した。マレーシアをはじめアセアン地域で、日系、欧米系のセットメーカーがカラーテレビ、AV機器、OA機器などの民生用電子機器を中心に急速に生産を拡大したのに伴い、電子部品の需要が大幅に増加していた。当社グループでは、これらの状況に対応することと、当地域内で新たな分業体制 (水平分業=各拠点がそれぞれ別々のものをつくりあう) を構築する必要を感じ、マレーシア第3の都市イポー市近郊に生産子会社を設立したのである。
また、東南アジア地域の急速な経済発展につづいて中国においても、同国政府の経済開放政策を背景に、大きな市場が形成されることが明らかになった。当社は、この大きな中国市場でのユーザーサービスを強化するため、平成6年7月、中国国営の北京第三無線電器材廠との合弁会社、北京村田電子有限公司を設立し、チップ積層セラミックコンデンサの製造・販売を始めた。
こうして世界各地に生産拠点を設けてグローバルな生産体制を敷く一方、当社はこの時期、販売拠点も世界各地に拡充させていった。
昭和63年10月には、経営統括会社Murata Europe Management GmbHを設立 (注12) した。当時、当社はヨーロッパに1つの生産会社 (西ドイツ) と3つの販売会社 (フランス、イタリア、イギリス) をもっていて、西ドイツにある生産会社は販売機能ばかりでなく、一部ヨーロッパの本社機能を有していた。それを生産、販売、ヨーロッパ統括の3会社に分離、独立させて、それぞれの機能と目的を明確にしたのである。
この統括会社の役割は、ヨーロッパの各関係会社の経営や生産販売計画に対する監査・指導、システム整備のための援助、技術サービスや現地スタッフ教育の供与、ヨーロッパでの市場調査や販売促進政策の立案・展開といったマーケティング活動などで、いわばヨーロッパでの情報を一元的に収集・管理し、戦略・戦術をより強化していこうとするものであった。
平成元年12月には、オランダに現地法人の販売会社Murata Electronics (Netherlands) B.V.を設立し、EC統合に向けたヨーロッパ全体の販売ネットワークを拡充させた。ヨーロッパの販売会社としては5番目に当たり、これまで比較的手薄であったオランダ、北欧およびEC周辺地域への販売強化を意図したものである。
一方、東南アジアのエレクトロニクス市場の拡大にも目を見張るものがあった。そこで当社は生産拠点の拡充を図るとともに、販売体制を強化すべくめざした。
かくて翌2年6月、マレーシアに販売会社Murata Trading (Malaysia) Sdn.Bhd.を設立したが、これはシンガポール生産会社などで生産された製品を、現地の日系企業や欧米系企業にスムーズに販売するために設立したものであった。
なお、同年7月には、ブラジルに輸入会社Murata World Comercial Ltda.を設立している。
滋賀県野洲郡野洲町は、琵琶湖の東南に位置し、人口約3万2,000人、日本一大きな銅鐸 (注13) が発見された地としても知られる。
当社は生産技術や生産支援を中心とする技術の中核の機能を担う事業所として、この地に野洲事業所の建設を進めてきた。滋賀県から工場建設を誘われ、9万5,000m2の土地を取得し、昭和59年12月に新工場建設計画を決定、60年12月に起工式を行った。生産技術を軸に生産のハード・ソフトの研究開発、コンピュータを使った基幹システムの開発の根拠地とするとともに、品質・信頼性センタ、分析センタなども設置する計画であった。
62年7月、その一部である生産技術棟が完成し、竣工式を行った。構造は鉄骨造り5階建て、延べ床面積は約1万2,000m2、総工費約20億円であった。この新社屋は手狭となっていた本社・研究開発部門のスペースの拡充を図るためのもので、生産技術の研究開発部門が移った。
当社は野洲事業所を総合技術開発センタとして位置づけ、未来につながる新製品や新技術の一大開発センタにしようとしたのである。完成と同時に同棟では、グローバルな超合理化生産システムの開発などが進められている。
なお平成4年12月には、野洲事業所で8番目の建物である薄膜微細加工研究開発棟が竣工した。同棟は平成3年より総工費55億円をかけて建設を進めてきたもので、鉄骨造り地上4階地下1階、延べ床面積約1万m2であった。近年の衛星放送、移動体通信など高周波を利用した通信システムの成長を背景に、今後の需要の拡大が期待されているガリウム・ひ素をベースとした高周波半導体素子FET (電界効果トランジスタ) や、薄膜微細加工技術の研究開発をめざすものである。このためクリーンルーム設備や成膜装置、分析装置などを導入しており、その完成によって、半導体、薄膜微細加工技術の研究開発が充実し、これらを応用した新製品の開発が大いに期待されている。
滋賀県野洲町に生産技術を中心とした研究開発センタを設ける一方で、昭和63年には、神奈川県横浜市緑区にある先端技術産業団地「白山ハイテクパーク」に進出し、横浜開発センタを開設した。11月にその第1期工事が竣工したが、建物は鉄骨・鉄筋コンクリート造りの地上6階地下1階、延べ床面積1万2,752m2で、日本の電子業界でも最大級の電波暗室やエンジニアの精神的緊張をほぐしながら創造力向上を図る発想室、クラシックホールやジャズホールなどいろいろな音場を再生することができる試聴室、などのすぐれた施設を整備した開発センタである。総工費は約40億円であった。
近年、衛星放送、衛星通信、VAN、LAN、OA、FAなどに代表されるように、情報、通信をはじめ、非常に幅広い産業分野でマイクロエレクトロニクスとソフトウエアを軸として技術の高度化が進展し、電子部品に対する要求もますます複雑化している。そのような市場ニーズに対応すべく、ソフトウエア、センサ技術、回路設計技術、微細加工技術などをさらに追究し、新しい機能部品を開発するために設けたのが横浜開発センタである。
今後大きく成長すると思われる通信機メーカーやコンピュータメーカーは、関東に多い。新しい機能部品やシステム型製品は、それらの得意先と共同で開発しなければならないケースも多く、また人材確保のことも考え、関東に開発の拠点を設けたのである。
言葉を換えていえば、次世代を目標とした新たな技術拠点、それが横浜開発センタである。
当社の情報システム統合化の大プロジェクトがスタートしたのは昭和59年4月であった。
当社の情報システム化の歴史は、昭和41年の給与計算に始まり、以来、販売、資材、会計等逐次サブシステムを拡大してきた。本社、八日市事業所、福井村田製作所、金沢村田製作所の4拠点にIBMのコンピュータを設置し、各事業所には分散処理機や端末装置を配置、生産管理や販売管理などのサブシステムを構築してきた。こうして、それまで各事業所ごとに個々に存在していた販売管理システム、生産管理システム、資材管理システムなどの基幹業務システムを一つに統合しようというのがこのプロジェクトで、4億円の費用と3年間の日数、大勢の人員をかけて進めた。
この時期に統合化をめざしたのは、一つには情報処理技術や通信技術の進歩によって統合化が進めやすいという条件があった。もう一つはデータを横断的にとらえ、より高度に利用していこうということであった。いい換えれば、重要な経営資源の一つとしてのデータを、他の経営資源、つまり人、物、金と組み合わせ、有効に活用できる情報システムをつくっていこうというものである。
事務センタでは、昭和57年から情報システムの見直しを始め、「基幹システムは集中、固有システムは分散」の方針を立て、59年から実際の統合化を始めたのである。
情報システムの統合化に関する柱は、(1) 基幹業務の集中化、(2) 全社データベースの確立、(3) 固有業務の分散処理化、の3点に集約される。
当社はこれを大きく2つのステップに分けて実施した。
第1ステップは、各処理拠点で別個に処理しているシステムを、そのままの状態で事務センタへ移管しようとするもので、いわば単純集中といえる。
第2ステップは、単に処理する場所を変えただけの第1ステップに対して、システムの全体的な見直しを行い、それぞれが整理統合されたかたちに再構築しようとするもので、いうなればシステム間統合である。
システム間統合の内容をもう少し具体的に説明すれば、(1) 同種システムの一本化 (注14)、(2) 異種システム間のインタフェースの調整、(3) 従来機能の改善および新機能の追加、(4) データベースの一元化、(5) 分散処理の推進、の5項目が主な作業内容であった。
ここで大事なのはデータベースの一元化の問題であった。データベースとは、一言でいうなら「複数の適用業務で共有可能な、整合性のとれたデータの集まり」である。従来のデータのもち方は、拠点別、適用業務別に分散されており、結果的に同種データの二重もちという形になっていたので、ユーザー部門から見れば重複入力や、データの信頼性という点で問題を含んでいた。そこで統合化の大きな柱の一つとして、一元化された全社データベースの確立をめざす必要があったのである。
当社は、そのデータベースの一つである人事情報システム (PIS) を、62年7月から開発を始め、63年10月には運用を開始するところまでこぎつけたが、PISは次のような特色をもっていた。
いわばこういったデータベースをコンピュータに組み込み、必要なときに取り出して経営管理に役立てていこうというのが、当社がめざした情報システムであった。
当社グループの情報システムは、最終的には、人材情報システム、品質情報システム、生産情報システム、販売情報システム、資材情報システム、技術情報システム、経理情報システム、企画情報システムの8つのシステムから構成されることになる。
当社は昭和60年にエクセレント・カンパニー宣言をし、好不況のいかんにもかかわらず常に売上高や利益がコンスタントに伸びていく企業体質づくりをめざして、経営努力を重ねてきた。野洲事業所の開設や横浜開発センタの新設も、その一環としての経営施策であったことはいうまでもない。
昭和61年7月、当社は「プロジェクトMR21 (注15) (21世紀に向けての経営管理体制の改革プロジェクト)」を発足させた。21世紀に向けての経営改革を進めるためのプロジェクトである。
当社が長期的に健全な成長・発展を維持していくためには、何を重点施策として選択し、実践していくべきなのか。同時に、飛躍をめざそうとする企業にとって、その内部の経営管理体制 (組織の仕組み、情報システムを含めた経営管理システム) はどのような改革を必要とするのか。こうした長期課題に対して一定の回答を与え、それを実践していこうというのが、「プロジェクトMR21」発足の主要な動機となった。
具体的には次の3点を意図した活動であった。
こうしてプロジェクトは発足し、21世紀に向けての課題と対策について15のテーマを選び出したが、平成元年2月、そのうちの第6番目のテーマである「長中期商品開発計画およびシーズ開発計画の策定」を緊急優先解決策の一つとし、そのプロジェクトをキックオフさせた。
当社が今後、長期的に成長・発展をしていくには、開発力を強化しなければならない。当社が今もっている商品だけでは成長・発展は難しく、新しい商品の開発の成否がきわめて重要であるが、では今後の研究開発はどうあるべきかを考える前に、当社は今後どんな商品をもって、どんな事業を営もうとするのか、事業領域を明らかにする必要がある。
そこでプロジェクトは、まず当社は今どんな資源 (商品、技術、販売力など) をもっているのか、当社を取り巻く環境が今後どのように変化していくのか、を分析したうえで、今後の当社の事業領域を明らかにしていくことにした。
明らかになった当社の事業領域としては、(1) 現在の事業を機能複合商品に展開していく。(2) センサと通信分野で機能複合商品を志向する。(3) 一般汎用電子部品の充実を図る、の3つを推進することにしたのであるがこれらは、今後とも当社の事業の大きな核である。
また、環境の変化をどう認識するか、については、21世紀に向けてのエレクトロニクス産業の変化を次のように認識した。(1) 主流は情報処理と通信技術。(2) どんな事業・技術にもライフサイクルがある。(3) 企業の役割は変化していく。
さらに研究開発の方向としては、ニーズ志向の研究開発が確認された。すなわち、市場が何を欲しがっているかを常に把握し、それを開発し、供給していく姿勢が求められている、ということである。
こういった考え方にもとづき、平成2年2月から実際にプロジェクトが動き出したのである。
平成2年9月、当社は全社的な組織改正を行った。改正のポイントは (1) 事業部の再編と統合、(2) 営業組織の見直しと再編、の2つであった。
まず、従来の9事業部 (コンデンサ、複合、抵抗器、EMI、圧電、可変商品、映像部品、原材料、特磁) を、コンポーネント、ファンクショナル・デバイス、原材料の3事業部に再編、統合した。
一方、営業組織の再編については、管理統括部、業務部、第1営業推進部、第2営業推進部、第3営業推進部、市場開発部を廃止し、管理統括部、営業企画部、営業推進部、第1営業統括部、第2営業統括部を設置した。
このような大幅な組織改正を行った背景の一つは、複合化の進展、業際商品の展開への迅速な対応である。従来の事業部組織は、主として単体部品対応型のものとなっていた。しかし、これからの商品展開や市場のニーズは、各種単体部品を組み合わせた複合機能化商品やソフト化へと重点が移りつつあり、業際的な商品展開が拡大しているので、当社としてもこうした複合機能化商品に力を入れていく必要があった。
2つ目はグローバルな市場志向型組織の構築である。今後の商品開発や販売戦略にも、世界的な視野が必要である。そのためには事業部長が、特定の事業所の経営に手をとられることなく、より広い立場から、商品の経営に専念できる条件づくりを行った。具体的には、事業部長に海外を含めた販売に対する機能を強化し、また生産拠点たる事業所の運営は事業所長に委ねられる体制にし、これによって事業部長は国内、海外を通じてのグローバルな視点で製造から販売まで、一貫して商品経営に携わることができるようにしたのである。
3番目はセクショナリズムの除去である。比較的狭い商品の系列ごとの事業部制は、どうしても事業部間のセクショナリズムを生み、他の事業部にまたがるような商品への対応が遅れがちとなる。そんな弊害を取り除くことも今回の組織改正のねらいの一つであった。
4番目は、事業部再編に対応した営業の強化である。営業スタッフ組織の簡素化を図ることによって、幹部社員の多くを第一線の販売部隊に移して営業力の強化充実を進めた。また、事業部に販売推進部を設けることによって、営業部門と事業部販売推進部門とが共同してユーザーを訪問し、密接な連携を取り合うことで営業および技術情報の交換を速やかに行い、ユーザーサービスを一層充実させることが可能になった。言葉を換えていえば、この組織改正は、統合化した事業部体制による商品経営の一元化の推進といえよう。
平成3年6月27日、第55回定時株主総会後に開催された取締役会で、新しい経営体制の発足が決定した。
取締役社長の村田昭が取締役会長に就任し、後任の取締役社長には村田泰隆取締役副社長が昇格した。同時に取締役副社長の村田治が取締役副会長に就任した。
新会長の村田昭は、昭和19年10月に当社を創業、以来50年の長期にわたって社長を務め、当社を国内外に多くの生産会社、販売会社を有する国際的な電子部品メーカーに育ててきたが、平成3年3月をもって70歳を迎えたのを機に、経営トップの若返りを願って第一線を退いたのである。
新社長の村田泰隆は、昭和22年5月生まれの43歳。47年5月ニューヨーク大学数理統計学科を卒業、48年7月にニューヨーク大学大学院を退学して村田製作所に入社し、主に海外、マーケティング分野を中心に活動した後、可変商品部長、福井村田製作所専務取締役、村田製作所取締役、専務、副社長を歴任してきた。急速に国際化が進展しつつあるエレクトロニクス業界だけに、新社長の国際分野での経験や豊かな国際感覚を生かした経営が大いに期待された。
村田昭新会長は、会長就任のあいさつの中で次のように述べた。
「病弱で無学な私が、昭和19年に町工場から創業して、今日では世界有数の電子部品メーカーになれたのは、多くの方々のお引き立て、とりわけ京都大学の田中先生のご指導と脇野・藤島両専務の技術力と、先に引退された安田常務の得意先開拓によるところが大きく、それにつづく多くの社員の皆さんの情熱と努力と誠実さに支えられてきたものであり、私は本当に幸運に恵まれたと深く感謝しております。……」
さらに村田会長は、創業者らしく次のような言葉を付け加えることを忘れなかった。
「なお、お得意様のお引き立て、仕入れ先のご協力、業界、地域社会との円満な交流なしではやって行けません。常に、感謝の気持ちを忘れず、会社がより大きく発展するとともに、より皆さんの生活の向上が図られ、多くの方々から評価されるよう、新社長のもと、皆さんが一致団結をして仕事にいそしむとともに、社会の一員として奉仕の心を大切にしていただくことをお願いします」
経営新体制の発足に当たっては、永年当社の技術をリードしてきた脇野喜久男、藤島啓の両専務も役員を退任、常任顧問に就任した。当社においても一つの時代が終わり、新しい時代が始まったことを示している。
会長、副会長、社長以外の新役員は次のとおりであった。
| 取締役副社長 | 高嶋繁裕 山村和夫 |
|---|---|
| 専務取締役 | 泉谷裕 有吉昶 |
| 常務取締役 | 村田理如 今村英二 村田恒夫 |
| 取締役 | 茶之木太 笠次徹 宮本欽司 奥義一 筧流石 佐藤次雄 西川敏夫 松居修 南井喜一 森川幸二 小林隆 (新任) 羽室光郎 (新任) 稲田勇 (新任) 若村茂一 (新任) |
平成3年6月、当社が新体制でスタートするに当たって、大きなテーマとしてもち上がったのが、トップマネジメントの意思決定のシステムであった。
これまでは創業社長の卓越した経営能力と強力なリーダーシップによって組織が運営、維持されてきた側面がある。しかし、新体制にはそれにふさわしい意思決定の仕組み、あるいは指導体制があるべきとして、「トップマネジメントの意思決定をより効率的に行うための、スタッフ部門の政策立案機能の充実と人材の育成」を、新たな戦略として組み込んだ。
具体的には、常務以上で構成する常務会というトップマネジメントによる重要案件の意思決定に当たっての審議を行う会議体を設けて、これを定期開催し、新社長のマネジメントを支援し、トップマネジメント間の意思疎通を図ることとした。また、取締役以上で構成する経営会議で、トップマネジメントの機能責任分担の遂行の確認と対応、重要案件についての情報の共有を図るなど、いわば集団指導体制が敷かれたのであった。
新社長は、平成4年1月、就任後初めての社長方針を打ち出したが、その時、方針の一つとして掲げたのが、意思決定時間の短縮であった。組織的運営体制は社員の経営への参画意識を醸成させる面があるが、半面、意思決定に時間がかかりがちとなる危険性もある。新社長はそのあたりを懸念して、それを方針に掲げたのである。
また新社長は、中期経営課題を明確にし、それによる中期経営方針を打ち出し、トップマネジメント間の思想統一を図るとともに、その完遂を期して方針を計画レベルに具体化し、全社の中期目標を明示して経営の改革に乗り出した。
「村田製作所はなにをセイサクしているんだろう」
平成3年から4年にかけて、こんなテレビコマーシャルが茶の間をにぎわせたことがある。これは当社が創業以来初めて流したテレビCMだった。
当社はもともと地味な会社で、社外PRが下手であった。当然、知名度も低かった。部品メーカーという一般には馴染みの薄い業種であることも知名度を低くしている要因であろうが、ある程度の企業規模にも達したことから、積極的に社外PRを行って知名度を高め、企業イメージを高めていく必要があった。それは社員のモラールアップにもつながるし、人材の採用にも有利である。そんなことから積極的にテレビCMを活用することにしたのである。
最初のテレビCMは大変好評で、平成3年の朝日広告賞D部門賞を受賞したほか、大阪コピーライターズクラブの‘92OCC賞クラブ賞を獲得した。
4年8月からは、第2弾のテレビCM『こわくないエレクトロニクス、村田製作所に触ってください』を始めた。これは『村田製作所はなにをセイサクしているんだろう』の回答編で、「こわくないエレクトロニクス」とは、人間に近い、人間にやさしいエレクトロニクスという意味を表している。
3年のテレビCMの際、CMの効果を調査したことがある。その時は、「企業知名度は大きくアップし、就職意向も上昇している。テレビCMの影響力の大きさをいまさらながら再認識させられた」といった結果が出ている。
平成5年にも第3弾のテレビスポットCM『村田製作所は、中のことを、やっています』を放映 (注16) した。当社の特色をわかりやすく、しかも面白く表現したCMとして、これもまた大変好評であった。
テレビCMだけでなく、この時期、新聞広告、雑誌広告でも積極的にキャンペーンを展開し、企業のイメージアップに努めた。多くの人に個性的な当社を知ってもらうことによって、当社の社会的存在感が高まり、人、お金、情報などあらゆる社会資源を獲得する機会を大幅に増やすことができ、結果として当社の企業力を側面から強めた。
就任以来、新しい経営体制の確立をめざして着々と整備を進めてきた村田泰隆社長は、平成4年度の社長方針遂行の結果が所期の目標値を達成できなかったことへの反省に立って4年7月、平成5年度を初年度とする中期社長方針を発表した。
4年度の当社の業績低迷は、(1) 世界電子工業生産が全体として低滞したこと、(2) 日本の電子工業生産が、ビデオカメラなど主要機器の内需不振と在庫調整の遅れや、民生・産業・部品の全分野が同時不況に見舞われたことなどによって、電子工業界が2けたのマイナス成長に終わったことなどの影響によるものであった。
また、5年度の市場も、世界全体の生産はまずまずの伸びが期待されたものの、アメリカの対日政策やEUの市場統合、さらには円高の進行などから、輸出環境には厳しいものがあり、一方、内需低迷の続いていた日本の電子工業市場にも、景気回復を期待するにはなお不透明な要素が多かった。
このような厳しい市場環境下にあって、当社グループが、将来的に質の高い収益体質を維持して行くためには、中期的視野に立った方針のもとに、企業活動の全分野にわたる構造改革が必要であると判断して、新たな中期社長方針を打ち出したのであった。
この中で村田社長は、メタモルフォシス (Metamorphosis) ということを強調した。メタモルフォシスとは、ギリシャ語を語源とする言葉で、大変化、著しい変質、という意味があり、従来の新陳代謝を意味するメタボリズム (Metabolism) 的変化ではなく、当社の開発・生産・販売部門とそれを取り巻くスタッフ機能部門を、21世紀の経済・社会に適応できるように大変革させよう、という理念を表現したものであった。
村田社長はこの方針の中で、中期経営課題として8項目、指針として1項目を掲げたが、5年度においてとくに重点的に取り組むべき課題として、次の8項目を掲げた。
5年度社長方針ではさらに、当面克服すべき具体的な課題として、(1) 市場ニーズにマッチした営業体制の確立、(2) 世界の流れを的確にとらえた対応、(3) リーンシステムの実践と拡大、(4) 重点化志向による研究開発の効率化、(5) 間接部門の生産性向上、(6) 時短できる体制の確立、(7) 新しい事業構造に向けての組織構造の変革、(8) 地球環境問題への本質的な対応、などを指示している。
いずれの課題も、当社が21世紀のグローバル企業として経営基盤を安定・強化させるためには不可欠なものである。
平成6年10月に創業50周年を迎える当社は、現会長の経営理念のもとに大きく成長してきたが、21世紀の前半に位置する60周年、70周年を躍進下で迎えるために、新社長の新たな経営理念と方針のもとに、ここに企業メタモルフォシスの第一歩を踏み出したのである。
注1)背景には、アメリカが対外資産よりも対外的な負債・債務の方が多い債務超過国へと転落してしまったという事情があった。放置しておけば“ドル暴落”への可能性があるため、それを未然に防ぐべく、まず第一にアメリカの輸出競争力を低落させたドルの異常高を修正する必要があったのである。
注2)『中小企業白書』(1987年版) は、昭和51年の中小企業の海外直接投資は前年比88.4%アップとなり、現地生産ブームになっていると指摘している。
注3)新製品市場は、平成3年に一挙に1.8兆円に達し、その後、年々30〜50%アップの成長スピードで市場拡大を続けるという予測値を得ている。
注4)情報処理機能とコントロール機能を中心とした機器。
注5)日本における自動車電話、携帯電話の加入数の状況は、平成3年1月末現在 (累積) で81万1,000台。2年3月末に比べて32万1,000台増と好調に推移した。とくに携帯電話は3年1月末現在で40万9,000台加入と自動車電話 (40万2,000台) を初めて上回った。これは業務用中心から個人向け需要の増加に伴い、日本移動通信 (IDO) や第二電電系の小型・軽量タイプが好調に増加しているためであった。
注6)Surface Mount Device
注7)Road Automobile Communication System
注8)Advanced Mobile Traffic Information and Communication
注9)この製品を発表したとき、圧電振動ジャイロを搭載した模型のリモコン自転車のユニークさが関心を呼んだのか、NHKテレビのニュースで取り上げられ、エレクトロニクスショーに出展したときは、そのデモンストレーションが大変な人気を呼び、ソニーの盛田昭夫会長がわざわざ見にこられたほどであった。また、圧電振動ジャイロを搭載したリモコン自転車を使った当社の企業広告「ムラタセイサク君はどうして転ばないの」を、テレビCMや新聞広告、ポスターに出したところ、これまた大きな反響があり、圧電振動ジャイロに対するたくさんの問い合わせを受けた。
注10)ブラジルでは、セットメーカーの大部分がマナウス自由区で生産しており、総生産に占めるマナウス自由区での割合は、カラーテレビおよびカセットテープレコーダでは90%以上、通信機では80%以上であり、その他の電子についてもウエイトが高く、電子機器生産のマナウス自由区への集中は強まる傾向にあった。
注11)輸出用製品を生産する場合、必要な原材料や生産設備を無税で一時輸入できるという輸出保税加工制度。さらに、その製品をアメリカに輸出する場合、アメリカとメキシコの間で締結している付加価値関税制度の特典によって、非常に少額の関税で済ますことができる。
注12)産業用電子機器市場を中心に、ヨーロッパ地元セットメーカーや米系企業の好調に加えて、日系企業の現地生産の動きが本格化し、エレクトロニクス市場が大きく拡大しつつあったので、1992年 (平成4) に予定されている欧州市場の統合も視野に入れての政策によるものであった。
注13)当社の工場建設用地からもたくさんの遺跡が出、建設前には遺跡調査が行われた。
注14)従来、運営されていたシステムは拠点ごとに内容が異なっている場合があった。とくに生産管理システムにその傾向が強かったが、それを一本化しようというのである。
注15)Murata Management Revolution for the 21th
注16)キャラクターに俳優の天本英世を起用、その天本が老科学者「村田 中博士」を演じ、天眼鏡を手にテレビや電話の『中』を調べ、そこにある小さな部品を発見する。その部品には小さな文字で、「村田製作所、中のことを、しています」とメッセージが書いてある。
村田昭社長、藍綬褒章を受く
昭和55年秋の叙勲褒章決定の発表で、当社社長の村田昭が見事藍綬褒章の栄誉に輝いた。
この度の褒章は「多年電子機器部品製造業に携るとともに、関係団体の要職にあって業界の指導と技術向上につとめ、斯界の振興・発展に顕著な功績があった」ということで、国家がその功績をたたえ、与えられたものである。
村田社長は社団法人日本電子工業振興協会、日本電子機械工業会、社団法人日本電子部品信頼性センター、社団法人関西電子工業振興センター、電子材料工業会など多くの業界団体の役員を歴任されてきた
村田昭、雑誌『財界』から経営者賞を受く
昭和62年2月、当社社長の村田昭が雑誌『財界』を発行する財界研究所の昭和61年度の経営者賞に選ばれた。「経営者賞」は、企業経営に優れた実績を示した経営者に贈られるもので、長年の伝統をもった栄誉ある賞である。
村田社長は海外で積極的な事業経営を行い実績を上げたことが評価された。選考はダイヤモンド社、東洋経済新報社など日本を代表するマスコミの代表者が中心になって行っている。61年度の「経営者賞」には、村田社長のほか椎名武雄日本アイ・ビー・エム社長、戸崎誠喜伊藤忠商事会長など5人が選ばれた。
脇野・藤島両専務、藍綬褒章を受く
昭和63年4月、当社専務の脇野喜久男が科学技術庁第30回科学技術功労者の表彰を受け、また春の叙勲では藍綬褒章に輝いた。
前者の科学技術功労者の表彰理由は、「セラミック誘電体マイクロ波フィルタの開発、育成」というもの。当社では、昭和46年より脇野専務を中心にしてセラミック誘電体フィルタの開発が始められ、それまでのフィルタに比べて、小形で品質係数が高いものを数多く生み出してきた。そして現在、小形化、高品質化を進めていった結果、自動車電話や携帯電話などの通信装置用のフィルタとして数多く使われるようになっている。藍綬褒章についても受章理由は同じ。
翌64年4月、今度は藤島啓専務が藍綬褒章を受章した。
藤島専務は、長年圧電セラミックの研究に手がけ、セラミックフィルタ、セラロックなど独創的な製品を世界に先駆けて開発をしてきた。その先駆的な技術開発が評価されて今回の受章となった。セラミックフィルタ、セラロック、とも世界におけるシェアは90%を占めている当社の独占的な商品である。
平成2年3月、当社は、創業45年にあたって、エレクトロニクスの中でも強誘電体として画期的に優れた特性を持つ「チタン酸バリウム」に関し、その誕生から今日に至る発展の歴史をまとめた『驚異のチタバリ』を出版した。丸善株式会社を通じ、定価4944円で全国有名書店で販売された。
チタン酸バリウムは、当社製品のベースになっている材料である。言葉を換えて言えば、当社はチタバリとともに発展をしてきた会社である。と同時にエレクトロニクス界にとっても、大事な材料である。
しかし、チタバリの発明から、研究開発、実用化にいたるまでのまとまった記録がなく、今整理をしておかなければ永遠に記録が失われるであろうということから、チタバリを事業化してきたメーカーの一つである当社の文化事業の一環として、刊行したのである。平成2年2月17日、京都センチュリーホテルで、田中哲郎京都大学名誉教授他多数の執筆者が出席して盛大な出版記念パーティが催された。
また同時期に誠文堂新光社から「ふしぎな石ころ」が出版された。
当社は、日経エレクトロニクス誌が主催する、’89日経エレクトロニクス年間広告賞を受賞した。同賞は同誌に毎号掲載される全広告を対象に、読者の注目度アンケートを実施し、もっともスコアの高い (注目を集めた) 広告に贈られる賞である。
受賞した当社の広告は、平成元年6月から12月にかけて、従来の商品広告とは一線を画す新しいコンセプトのもと、「ムラタが技術を熱くする」をスローガンに、シリーズ広告として日経エレクトロニクス誌や電波新聞、日経産業新聞などで展開した「技術提案広告」の第一弾に当たる。
当社が誇る技術を、当社のトップ技術者が商品や技術ノウハウを通して語り、「提案」するといったスタイルで、それまでにないユニークなスタイルと、タイムリーで実践的な内容が評価された。
平成4年6月、村田製作所OB会「栄寿会」を設立した。
平成4年10月、当社は創業48周年を迎えた。その間、事業規模は飛躍的に拡大し、社員数も増加してきた。そのため今後は定年退職者の増加が見込まれる。このような状況を踏まえ、創業以来、当社の発展を担ってきた先輩OBおよびその家族に対して、退職後も感謝の場を設けたくて設立したのである。
会員数122名、名誉会長村田昭、名誉理事村田治、脇野喜久男、藤島啓、会長小泉衛でスタート。
今後は、この会を通じて、先輩OBが退職後も健全で価値ある人生を営み、意欲的な社会活動が展開できるよう支援していくとともに、企業福祉のあり方も、在職中の社員に対するものから、OB社員を含めた生涯福祉の実践へと充実させていきたい、というのが当社の考え方である。
平成5年春の叙勲で、村田昭会長が勲二等瑞宝章を受章した。
会長はすでに昭和55年秋に、電子部品の開拓者として藍綬褒章を受章しているが、叙勲はそれらの功績を含め、「国家または公共への顕著な貢献」という観点からその人物の全体の功労を総合判断される。叙勲には、旭日章、瑞宝章などがあり、勲二等瑞宝章以上の受章者は毎回100人前後と厳選され、とくに産業人でこれを受けられることはまれで、この春はわずか6人にとどまった。それだけに会長の歩んできた道と功績が、国家レベルで高く評価されたといえる。
爽やかな五月晴に恵まれた5月7日、会長は長年内助の功の大きかった夫人を伴って宮中に参内して伝達式に臨まれ、そのあと天皇陛下の拝謁と記念撮影が行われた。
平成5年7月1日から31日にかけて、日本経済新聞の文化欄『私の履歴書』に村田昭会長が登場した。
「村田製作所の製品は一般の方々にはあまりなじみがなく、会社の知名度も高くない。そのため、業容を知っていただくチャンスが少ないことをかねがね残念に思っていた。『私の履歴書』の連載は、その格好なチャンスと思いお引受けをした」
と語っていたが、連載によって当社が広く社会に貢献していることの一端が理解されたのは確かである。連載中から大きな反響があり、連載後それは『不思議な石ころ』と題して一冊の本にまとめられ、平成6年3月、日本経済新聞社から刊行された。
また、この本は「The“Wonder Stones”」として英訳され、世界の得意先・研究者に配布されて絶大な反響をよんだ。
平成6年2月、当社会長の村田昭が毎日新聞社の第14回の毎日経済人賞を受賞した。同賞は、すぐれた経営手腕で各業界に新風を送り、日本経済の活性化・国民生活の発展に貢献した経営者に贈られるもので、権威ある賞である。過去、ソニーの大賀社長やアサヒビールの樋口社長が受賞されている。
受賞の理由は、(1) わが国の電子機器業界の発展に貢献、(2) 国際企業に成長させた先見性、(3) オゾン層破壊物質の全廃など環境保全への取り組みが評価された。第14回の受賞式には、福井謙一京大名誉教授、谷井昭雄松下電器産業元社長、橋本徹富士銀行頭取などの方々が出席された。
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